気ままにチャレンジ!街道を歩く、峠を越える。浦賀道・十三峠越えは明治国道45号・尾根の道!
浦賀道を歩いた。久しぶりの峠越えでもあった。
歩くフィールドは色々ありますが、旧街道歩きで途中に「峠」があるコースは特におススメだ!
旧街道にはそれぞれ特色というものがあるのですが、それに峠が加わるとフィールドに「峠越え}という別のアクションがプラスされるので道程の醍醐味が増します。
峠越え~それだけに絞ったウオーキングもまた、おもしろい味がありますね。
ここでは、その峠歩きのフィールドのみを参考に取り上げてみました。
十三峠の入り口は横須賀市田浦町2丁目の長善寺の南側から北東に上る小径。
*谷戸 丘陵地が浸食されて形成された谷状の地形。谷(や、やと)・谷津(やつ)・谷地(やち)などとも呼ばれる。
*広辞苑・やつ「谷」 (関東地方で)低湿地。やち。やと。特に鎌倉辺に地名として多く現存し、地名としては「や」ともいう。
*田浦梅林 昭和9年(1934年)皇太子殿下(現在の上皇陛下)のご生誕を記念して、山の所有者である石川金蔵さんを中心とした地元の人たちによって梅林組合がつくられ、700本の梅が植樹されたことにはじまります(横須賀市観光情報)。
約2,000本以上のウメが咲きほこる梅の名所で三浦半島でただひとつの梅林だそう。
例年、2月初旬から3月初旬まで「田浦梅林まつり」が開催されます。
12月から3月にはスイセンの花、5月頃には展望台付近でツツジも楽しめます。
途中の崖下に、天保12年(1841)丑(うし)年三月吉日と刻んだ道六神があった。見過ごしてしまいそうな佇まいのものだった。
*道六神 塞の神、道陸神、道祖神ともいう。村境や道の辻、峠道などに祀られ、そこから内へ伝染病などの悪霊が入り込まないようにと境を守る神とされ、また道行く人(旅人)を守る神ともされた。「念仏講中、世話人、七右衛門、六右衛門」と書かれていることから、念仏講の人たちが建立したと考えられる。
小道はやがて一気に上らせる石の急階段になる。だれもがビックリするだろう。
見仰ぐほどの石段。地元では太田坂(おったざか)と言っている。30メールくらいの高低差があろうか。
明治20年(1887)、この浦賀道の横浜〜横須賀区間が「国道」に指定されました。いわゆる「明治国道」です。今日の国道16号線が誕生するまでは、浦賀道が幹線道路でした。
勿論、往時は土道。雨の日にはすってんころりん。そのあとは何とも想像しがたい!
それが危険や難儀を考慮して階段につけかえられたのはいつなんだろう。
階段は途中でくねくね折れ曲がりながら続いている。よくぞこんな急斜面に石段を組んだものだ。
本来は階段ではなくとてつもない胸突坂だったのでしょう。
この道が明治の国道だったとは。上るほどに驚きの度が増すばかりです!
浦賀道(明治国道45号)はこのように海岸線を離れ、大きく尾根沿いを迂回していたんですね。
上り切ったところから下方を望む。
青森の竜飛岬に階段国道、上越国境に清水国道呼ばれるようなところがあるが、ここもかつてはそう呼ばれたのだろうか。
それにしても長い峠道。
登ると左手は市営月見台団地。田浦町1丁目だ。この辺りは城の台。土地の人は「しろんだ」というそう。
ここからの十三峠(旧浦賀道)は塚山公園(安針塚)へと尾根道になっている。
城の台 鎌倉幕府の家臣。秋田城之介景盛・義景親子の下屋敷があった。 義景は、風光明媚(ぴ)なこの地をこよなく愛した。ある秋の夜の月見の宴。側室・唐衣(からぎぬ)のひく琴の音が美しく響いた。 田浦に昔から棲みつく夫婦狐の牡狐は琴の音に魅せられ、小姓に化けて聞いていたが、怪しまれ切り殺されてしまった。 恨んだ牡狐は唐衣に乗り移り秋田家を滅亡に追いやった、という伝説があるという。
城の台砲台跡 広々として、長浦湾を眼下に望む風光明媚な地も、戦争中は防衛のために兵舎や砲台の場となり一般の人は立ち入ることができませんでした。
*浦賀道 浦賀街道とも呼ばれ、三浦半島各地へ向かうための交通路として、なかでも浦賀に奉行所がおかれ、江戸と浦賀間の往来が盛んになったことから、保土ヶ谷、戸塚から三浦半島の浦賀に至る東西2本の道が作られました。
- 東浦賀道 東海道「保土ヶ谷宿」から六浦を過ぎて相模国に入り、田浦、十三峠、逸見、汐入、大津を通って、矢の津坂から浦賀に至る道。江戸からは17里半(約69km)。
- 西浦賀道 東海道の「戸塚宿」から鎌倉道に入り、鎌倉を経て葉山、平作、衣笠、大津で東の浦賀道と合流する道。江戸から浦賀まで20里(約79km)。公道の位置付けから「道」を「どう」と呼んだ。
*浦賀奉行所 江戸幕府の遠国(おんごく)奉行の一つ。元和2年(1616)伊豆に下田奉行が置かれたが、享保5年(1720)12月に相州浦賀に移された。江戸に出入りする船改めや江戸湾防備のためのものだったが、外国船が浦賀に来航すると,幕府の要職となり,ペリー来航の際には主要な任務を果した。
浦賀道十三峠 横須賀市北西部、長浦町の谷戸に位置するが、峠を越える道は尾根筋を通り、西の田浦(田浦町二丁目)の谷戸と東の逸見(西逸見町三丁目)の谷戸とを結んでいる。
十三峠の名の由来 保土ヶ谷より13番目の峠ということで名付けられたという説や、峠に祀られた十三仏にちなむという説などがあります。
「陸路ハ難所二テ七里八坂トイイ是(コレラ)坂ケ拾(ハンカヒ口)通りトイイ…」と、 「三浦古尋録」(文化九年刊)にあるそうで、滅茶苦茶の難所でした。
けど、ともかく景色がいい。眼下に谷戸の家並み、横須賀や長浦の港。遠くに房総の山も視界に浮かびます。浮世絵師・安藤広重がここを「田浦の里・山中風景」で描きました。(「広重武相名所旅絵日記」(昭和51年刊・鹿島研究所出版会)
*明治国道45号 明治12年(1879)に仮定県道「浦賀往還」となり、さらに明治20年(1887)には横浜~横須賀間が「国道45号」に昇格し、明治から大正にかけ幹線道路となっていました。
しかし、田浦・逸見の両谷戸から尾根上への登り坂が急峻で、荷車等の通行は困難をきたしました。そのため、昭和3年(1928)に田浦-逸見間の海岸沿いにトンネルで通り抜ける道路(国道16号)が開通しました。それによって十三峠の国道は幹線道路の地位を譲り渡したわけです。
城の台のところから分岐して右に下る道がある。ループ橋につながっている。
ここは寄り道。「のの字橋」は面白い螺旋状のループ橋。れっきとした横須賀市道1643号なのだ!
このループ橋が生まれたのは戦前。尾根上の「城の台」に砲台を築くための物資輸送路として作られたもので、はじめは木橋のループ橋だったという。
横須賀湾とともに重大な軍事拠点であった長浦湾、物資輸送の玄関口であった田浦駅。それと「城の台」とを結ぶ位置関係にあることが分かる。
普通には九十九折りにするところをループ構築にしたことで輸送も容易だったろう。残念ながら明治国道の時代にはまだループという設計思想を持ち得なかった。
2重ループの中央はすり鉢状に窪んでおり、空間が「一丁目公園」(遊ぶ子いるのか?)となっている。整備の段階で設けられたものだろうか。
1回転半ほどまわって上った先が浦賀道になる。
尾根道をズンズン進む。
道沿いに民家がちらほら。
まさに尾根道。左手に長浦湾、右に浦賀湾が開けてきます。
この十三峠というのは、多くの峠がもつ、鞍部越えの峠ではないようだ。
だからここが峠と決め難いものがある。それを敢えて指すとすると、このあたりになろうか。なんとなく峠らしい雰囲気がある。
浦賀道の村。無人の原野を人が耕し人が開いた村。山里の「開拓記念碑」がそんな艱難辛苦の歴史を物語る!
開拓記念碑 十三峠道の途中、右手の公園に「開拓記念碑」の石碑があります。昭和32年(957)1月に建てられたもの。
戦後の食糧不足の対策として自作農創設特別措置事業の公布により農地開拓が行われ、 昭和23年3月に、十三峠開拓組合の手で鍬(くわ)入れ式が行われました。入植者は二十世帯で掘つ立て小屋を建て、ランプの下で寝起きして開拓に励んだといいます。
つまりこの辺りは開拓村なんですね。
路傍に無人の農産物直売所がいくつかあります。地元で採れた野菜が並べられ、100円玉を箱にいれ自由に持ち帰るというもの。
浦賀道の十三峠は谷戸また谷戸の連続する尾根地帯を、海を背景にうねうね続いている!絶景、絶景!絶景~かな!
横須賀に向かっては東斜面の先は横須賀基地と海。
凹凸のある尾根伝いの道である。
道が緩やかにカーブする。
安針塚(あんじんつか)の真裏の狭い掘り割り道が明治国道ルート上の最高所(海抜130m)だそうだ。
見上げるような長い石段がまっすぐに続いている。
その一角のひと際の高台に三浦按針夫妻の供養塔がある。
三浦按針(みうらあんじん)は徳川家康の寵をうけ顧問役となり、三浦郡辺見村に土地を拝領し、三浦按針の日本名を賜り、貿易、測量、造船、軍装備等の指導にあたりました。平戸に阿蘭陀商館を設置させたのも彼の力によるところ大であったといいます。平戸の英商館長コックスのもとにあって辣腕をふるい、元和6年(1620)平戸にて病死、55年の生涯を閉じました。墓地は長崎県平戸の大久保町遠見にあります。
三浦按針夫妻の供養塔 三浦按針とその妻(お雪)の墓。遺言により築かれたもので、「按針塚」ともいわれています。例年4月上旬には三浦按針祭が、塚山公園さくら祭と合わせて開かれます。墓は長崎県平戸にありますから、こちらは供養塔と呼ぶのがふさわしでしょう。
三浦按針は徳川家康の寵をうけ顧問役となり、三浦郡辺見村に土地を拝領し、三浦按針の日本名を賜り、貿易、測量、造船、軍装備等の指導にあたりました。平戸に阿蘭陀商館を設置させたのも彼の力によるところ大であったといいます。平戸の英商館長コックスのもとにあって辣腕をふるい、元和6年(1620)平戸にて病死、55年の生涯を閉じました。墓地は平戸の大久保町遠見にあります。
徳川家康から「三浦郡」に領地を賜ったので、「三浦」と名乗り、当時、コンパスのことを「按針」といい習わしていたことから、三浦郡にいる航海士さんということで、「三浦按針」になったといわれます。
塚山公園 標高133mの小高い山の上に広がる。明治の頃より知られた桜の名所で、「かながわ景勝50選」「かながわ花の名所100選」にも選ばれています。
浦賀の海は西逸見町・山中町・長浦町に広がっています。
港にイージス艦が浮かんでいるのが見える。左上が横須賀本港。
近くにある「見晴台」や「港が見える丘」からは、東京湾や横浜、遠くは房総半島、眼下には横須賀港、猿島などが見渡せます。
十三峠を下ります。
下り口は切通したような粗削りの道。
逸見側への降り口です。田浦側よりいくぶん傾斜が緩い七曲り道が続く。
田浦側にはないのどかな坂道が続いている。
所々で切通しのような日陰道が続きます。
幕末、吉田松陰も勝海舟もこの道を駆けたのでした。
逸見側の浦賀道十三峠も階段で終わります。こちらは緩やかな石段です。
安針塚への道標
三浦安針の墓標への道標がありました。碑には指差しマークと「WILLIAM ADAMS TOMB」と刻印されています。
ほどなく行くと左手の奥に一寺があります。
浄土寺 三浦郡逸見村の領主・三浦按針夫妻の菩提寺。
かっての江戸市中、日本橋には按針屋敷があり、町名にもなってました。
*三浦按針江戸屋敷跡 中央区日本橋の橋北詰から1筋北の東西の通りが按針通りでその真ん中辺りに建つ。屋敷周辺は昭和初期まで按針町と呼ばれていたという。
*長崎県平戸の「歴史の道」の歩道には三浦按針の銅像があります。
まとめ
浦賀道十三峠の旧国道は、現国道を含む三角形の2辺を迂回する道だったといえるでしょう。
そうなった必然も歩くとよくわかります。
峠には何某らのドラマがあります。
突然、三浦按針が出てくるところが、何ともドラマチックでしょう!
そんな峠道。機会があったら歩いてみて。