ポタリング紀行/日本一の大河367㎞をゆく~チャリ膝栗毛~信濃川・千曲川~源流遡行(3)-2

今回の歩みは、

越後十日町~土市~姿~安養寺~津南

こんにちは故郷さん。我が青春の十日町!望郷エリアをゆく!

どんよりとして窓に陽ざしがない。窓の外をのぞくと今にも降りだしそうな空だ。

以外や夕べはぐっすり眠れ、何にも夢を見なかった。

朝食をすませ出かけようとするも踏ん切りがつかない。だがグズグズ留まっているわけにはゆかない。

小雨が降ってきたが、ここだけはと、予定通り諏訪神社に行くことにした。

市内南東の高台にある。街の氏神様だ。ゆく道々で青春の記憶にすがるが鮮明なものが何もない。

高校時代、お祭りかなにかのとき一度お参りしていることまでは確かだが、ほかの記憶は全く曖昧。

こんなに見晴らしがいいところとは、今にして気づいた。

時折雨がしぶく。社殿の隅で雨宿りさせてもらう。
我が青春の街とは言ってみるものの、多くは自宅と学校のゆきもどりで、あまり街中をうろつくこともしなかった。

町のあれこれを何も知らないことにいくぶん後ろめたさを感じた。

諏訪神神社  十日町の総鎮守。創立の時期は不明だが、往古より十日町村の産土神であった。
初めは信濃川近くの諏訪島というところに開かれたが、承徳(1097~99)のころ、水災を避け現在地に移転したと語られている。祭神は健御名方命。

8月に行われる「十日町おおまつり」では、全国的にも珍しい八角神輿がくり出す。「オイヨイ」という独特の掛け声で担がれるユニークなものだ。

京都で作られ、北前船で日本海と信濃川の水路で運ばれてきたもので、京都祇園の西御座、東京佃島の住吉神社の神輿とあわせ「日本三大八角神輿」のひとつという。

江戸時代を通じ何度か改築され、現在の拝殿は大正15年(1926)の竣工
境内に御機神社,金刀比羅大神,天満宮などの摂社がある

摂社のなかで織物関係者の信仰を集めてきたのが「御機神社」(黒姫神社)。黒姫様は機織りの神様。機業(織物業)の人々から厚く信仰されてきた。機織りが上達するようにと織物の布を結びつける習慣があるそうだ。

越後の高柳(柏崎市)というところ。黒姫山の山麓にある黒姫神社にはお山を機神様として信仰する習わしがあった。

寛政5年(1793年)の機神社の創建時。伊勢由来の織物の神様、麻績屋媛命(おうみやひめにみこと)を祭神としつつも、民間信仰の黒姫神をも合祀する形をとったのだそう。

文久元年(1861)、機業家14名が黒姫講中を結成した。今日の織物組合の源流という。

毎年6月6日に「機神社」の例祭が執り行われている。古くからこの日は「六郎いん」と称し、機織りとともに田畑の農作業も休息日。黒姫様の命日に因んだものと伝えられる。六月六日の忌(い)み日(ろくがつろくのひのいみび)を畏敬を込め「ろくろういん」と略称したのではないかと識者はいう。

その日がそうだったのかと思えるかすかな記憶がある。そのころは「田休み」と言ってたような。農事の手を休め慰労する日があった。

晴れたら頚城の山並みが見えるのに残念

今は亡き次女の姉が自ら志願しこの町で織姫になった。働きもので、腕がよく大いに技量を認められたらしい。密かに黒姫様に願掛けをしたことがあったかも知れない…、そう思うと胸が熱くなった。

雪の国のきものの町で
今日よりすばらしい明日を夢みて
今日に限りない感謝をささげ
今日を人々のために
働けることを念じてやまない

昭和49年(1974)10月12日建立だから、姉亡き5年後の建碑だ。姉はこの町でどんな夢を見ていたのだろう。若くして亡くなった姉が今でも悔やまれる。

雪国の風土が生んだ越後縮の名産地・越後十日町

この業界で十日町は京都の西陣織と並ぶ絹織物の一大生産地とみなされている。

遡るとその源は越後縮にはじまるという。

江戸時代に魚沼地方一帯で生産された越後の代表的な麻織物で、夏物衣料とし人気を呼んだ。
麻糸に強い縒りをかけて織り上げ、独特の縮シボ(シワ)を出す。肌の上をサラリとすべる感触が夏の肌に快適で、夏用生地として幕府の式服にも採用されたくらいでした。

機織りは農閑期の女性の主な仕事であり大切な収入源でした。

それは「初雪の頃に始まり、雪解けに終わる」といわれました。
縮が織り上がると、外はもう春の気配。縮は晴天の日を選んで雪に晒されます。解けかけた雪と紫外線によって発生したオゾンが作用し、生地は雪のように白く、布は強く、しなやかな風合いに仕上がります。

そのことを越後塩沢の文人・鈴木牧之は銘文の誉れ高い『北越雪譜』の中で端的にいい表しています。

雪中に糸をなし、雪中に織り、
雪水にそそぎ、雪上にさらす
雪ありて、縮みあり
雪は縮みの親と言ふべし

(鈴木牧之著「北越雪譜」)

時代は麻織物から絹織物へ。
越後縮も新しい時代の波を受け、江戸末期に大きな転機を迎えることになりました。

すでに江戸は町人文化の時代。

日本各地には続々と新興の絹織物産地が誕生し、原料も麻から次第に絹へと移行してゆきました。

こうした流れが顕著になり専業にする機屋も出現。
絹縮の需要が増えるにつれ、農閑期の副業から専業にするものも現れ、十日町織物は歴史的な節目を迎えることになります。

機屋の誕生から約100年。研究開発のもとで生まれたのが「明石ちぢみ」でした。
シャリッとした肌ざわりで人気を浴びた明石ちぢみ。強撚糸を使った清涼感のある風合いは、湿度の高い日本の夏の着物として高い評価を受けました。

しかし、湿気が生地を縮ませる原因にもなり、これが価値を妨げました。

そこからさらに技術革新がされました。縮みを防ぐ加工が開発され、ついに「ちぢまぬ明石」が誕生したのです。

その「ちぢまぬ明石」の大規模キャンペーン。

中山晋平をはじめ、当世一流の人々による宣伝は功を成し、『十日町小唄』とともに「十日町明石」の名は広く全国に知れわたることになりました。

参考文献 十日町市勢要覧・「織物の系譜」(十日町織物のあゆみ)

きものまつり
風薫る5月3日(憲法記念日)。「きものの里をきもので歩こう」。歩行者天国となった市街地に、色とりどりの着物に装った人々が集まります。毎年恒例の「十日町きものまつり」です。

レンタルもあるそうです。一式:7,000円(きもの一式、草履、着付け代込)

お問い合わせ:十日町市総合観光案内所 025-750-1277

信濃川に沿った河岸段丘の豪雪地帯・妻有庄に開かれた雁木のある街・十日町!

十日町というのは、信濃川に沿った段丘上に広がる市街地。

今までそいう目でみたことがなかった。

西側には東頸城丘陵、東側には魚沼丘陵が連なり間に広く十日町盆地が形成されている。

日本有数の豪雪地帯と評されているところだ。

春になると雪解け水が丘陵から流れ出し信濃川に流れ込みます。

河岸段丘上や河川流域には広大な田んぼが広がり、魚沼産コシヒカリの産地として全国的にも有名です。

そんな河岸段丘上には縄文時代の遺跡が多く分布し、古代から人が住みやすかった環境がうかがわれます。それも古墳などがないことから強大な支配者がいなかった。

笹山遺跡から出土した火焔型土器・王冠型土器を含む深鉢形土器群も支配者の持つ富の象徴ではなかつた。何んとやすらぎと文化に満ちた山里だったことでしょう。古代の桃源郷ですね。

段丘上だから坂も多い。そんなことにもあらためて気づかされた。

雁木の本町通り

河岸段丘のせいか本町通り(国道117号)がこんなに傾斜していたとは。いちばん多く往来していたはずなのに。なんとも「灯台下暗し」であった。

街の中心街の本町通りは江戸L時代からの宿場通り。十日町街道と松之山街道が交差する交通の要衝となっていた。

十日町街道  飯山城の城下町と小千谷宿を結んでおり、信州側からは「十日町街道」、越後側から「善光寺街道」と呼ばれていた。

松之山街道 高田藩の高田城の城下町と三国街道の宿場・塩沢宿とを結んでいた。俗に「上杉軍道」とも戦国時代、春日山城を居城としていた上杉謙信が関東地方に侵攻する軍用道として整備を進め、実に関東へはこの道で14回も侵攻しています。

*松之山街道のうち、十日町市菅刈~薬師峠間には石畳などの遺構が残されており、平成8年(1996)「歴史の道百選選」に選定されました。古道 松之山街道 散策案内

雪まつり 昭和25年(1950) 2月4日、 雪まつりとしては全国で初めての雪まつり「十日町雪まつり」が開催された。「雪を友とし、雪を楽しむ」という着想から始まった雪まつり。十日町雪まつり公式ホームページ 。

積雪期用具  平成3年(1991)4月、 十日町の積雪期用具(3868点)が国の重要文化財に指定された。観覧は十日町市博物館

*新設合併  平成17年4月1日に旧十日町市、川西町、中里村、松代町及び松之山町の5市町村が新設合併して新たな十日町市としてスタートしました。そんな十日町、気象的には特別豪雪地帯に指定され、年間平均降雪量は967 cm、年間最深積雪量は217 cmといわれています。

古くは妻有庄(つまりのしょう)といわれてきた十日町一帯!そこで開かれる「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ

妻有庄とは中魚沼郡十日町市にあった庄園のこと。「この地域は、中世には波多岐庄と妻有庄があったが、16 世紀半ば以降、全域が妻有と呼ばれるようになった」(十日町市史通史編 )

南北朝時代初めの 暦応 4 年(1341)の市河文書というものに「妻在庄」とあるのが初文献で、「妻有庄」ではないが、両者は同じ実体を指していると考えられています。

語源については諸説ありますが、自然景観や地勢上の特徴から説明した「行き詰まりの地」。「ツマリ」は「行きづまり」の場所で、深奥の地とする意。これが理解しやすい。

この「越後妻有」を冠に、「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」というのが開かれています。

平成12年(2000)に第1回「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ2000」が開催され、以後、3年に1回開催されるトリエンナーレ形式を採用している。

トリエンナーレ(伊:triennale) 3年に一度開かれる国際美術展覧会のこと。

会期中には十日町市広域圏と津南町の公園など公共の場含む28集落、760㎢という広大な里山地域に300点を超える作品が展示されます。

トリエンナーレの期間外にも各集落には常時展示されている作品があるので、そうしたものは、トリエンナーレ以外の旅の途上でも鑑賞できます。

あまり記憶にすり寄ると離れがたくなるのでここは割り切った。 

里帰りではないから通過地点ととらえ、望郷の念はふりきって、本町通りから駅前通りを下り駅裏から信濃川方面に出ることにした。さっさと下った。

駅裏口というのがあったか記憶が定かでない。

はじめてみる裏口。西口だ。予想以上に開けている。いかにも新開地といったところ。十日町も発展したわけだ。

千代田町とか、これまでに聞いたこともない町名も多々ある。

中で聞き馴染みのある「高田町」は、妻有大橋のたもとから、十日町川西線沿いに本町通りまで6町も繋がっているのだ。そうだったか。唖然とする。

「高田町」があって「春日町」があるってことは、上越の春日山城に通ずる松之山街道があったことによるものなのか。

そんな穿つたおもいに浸るたび、自転車のハンドルをとられかねないことしばしば。

十日町橋通り(十日町川西線)を横切り、深雪町から国道253号を越え、川治川に出た。地名の川治はこの川に由来するのだろう。かつては町境の川だったろう。

川を渡ると北新田というところで、古くから新田開発で拓けた集落。さすが田圃が広い。中をほくほく線が貫いている。

このあたりからできるだけ信濃川がに迫ってみよう。

ほくほく線橋梁

指呼のところに信濃川に架かる線路橋がのぞまれる。撮影のため橋のたもとまで走った。

急行ほくほく線  平成元年(1989年)架設。新座駅~松代駅間。L=409.7メートル。 

ほくほく線  新潟県南魚沼市の上越線の六日町駅から、同県上越市の犀潟駅(さいがたえき)までを結ぶ北越急行の鉄道路線である。平成9年(1997)3月開業。

途中に上杉謙信が軍道の宿泊施設とした琵琶懸城の遺跡がある。

松之山街道(上杉軍道)の要所とされた城之古の琵琶懸城!

往時はこの辺りまで川だったおであろう。

城之古、これで「タテノコシ」と読む。難読の地名だ。

ここは市内でも数少ない弥生時代遺跡のひとつで、石鏃や磨製石斧、管玉などが採集されており、発掘調査では信州地方の土器と共に土器片を利用した紡錘車が大量に出土しているという。つまり弥生時代より、織物が織られていたことがこれで判明した。

紡錘車 (ぼうすいしゃ)  繊維に縒(より)をかけて糸に仕上げ、これを巻きとる道具。

ここまでは、古代のことで、中世になると、春日山城へ通ずる軍道沿いの要の集落となった。

武田信玄が「棒道」を作ったように、上杉軍が進軍した道は通称「上杉軍道」(約76㎞)と呼ばれ、のち松之山街道として知られるようになった。

そのコースの最大の難所が信濃川の渡河だった。

信濃川右岸の高島城と左岸の琵琶懸城は、信濃川渡河点を守備する上杉軍の要害城として伝えられている。

「城之古」集落の西端、信濃川に面した段丘の端にあり、眼下に信濃川の流れを見下ろすことができる。多くは畑と化している。信濃川は200メールほど離れたあたりを流れているが、当時は城の直下まで川だったのだろう。

手元にこれといった資料がないので踏み込めない。縄張の視界を一望しただけで先へ進んだ。

城之古から長兄の連れ合いが嫁いでおり、祭りに招かれたことがあったはずだが、蘇るものが何もない。

信濃川がこんなに近くを流れているとは思わなかった。

川が近くなった。

田畑も広く琵琶懸城の縄張りだったか。

地図を見ると新宮集落の中を南北にやや太い道路が走っている。

市道大黒沢新宮線のようだ。

この道を進んだら、もうすぐ故郷だ。

市道大黒沢新宮線  名の通りを結ぶ道で、橋ののようすからして古いようだ。

支流の羽根川が信濃川に流れている。羽根川を渡ると小黒沢。国道117号線を挟んでき東側が大黒沢。

どこも故郷に散らばる集落のひとつだ。

信濃川右岸をゆくと自ずと故郷に通うずる道に出会える!

この先の地図をみると古くから聞き馴染んでいた集落が点々とある。

その一つ一つに思いがあふれる。

伊達と土市の間で川を渡る。入間川という。川の存在はよく知っていたが名は初めて知った。というぐらいで、記憶の残滓はこんなものだ。

川を渡ると新宮。小中学を通じ仲の良かったMK君の家があるはずだ。

と言って、彼はもうこの世にいないのだった。中学を卒業し東京に出てそう遠くない日に病に倒れ早逝たのだと。そんなうわさを近年の同窓会で聞き及んだ。信じたもののお悔やみもせず今にあるが、振り返れば遙か遠い昔の出来事なのだ。どんな人生だったのだろう。彼の故郷で頭を垂れておこう(合掌)。

新宮の集落は地図上でみると広い。その広さに今更ながら驚き。この広さの背景はなんだろう、と。

新宮の新宮神社/MK君たち子供らの遊び場だったであろう。

新宮神社  地名からして由緒ありげ。集落の名は新宮神社に起因するのだろうが、地名も神社も由来、来歴がわからない。

直線道路をしばらく走るとどん詰まり。景色は変わっているが、確かにここだとうなずける道路に出た。

新宮バス停

姿大橋の通りだ。県道の「姿土市停車場線」。

学校にゆくとき、いつも近道をした野の道が、この近くで合流していた。

左に行けば飯山線の線路を越え国道117号、右に行けば姿大橋に出る。

曲がりくねった畑中の細い一本道だったはず

野道は家並の続く立派な道路に変わっていた。

まわりは別世界のようだ。

行くと墓地のある通りにぶつかる。

昔から集落へ通ずる唯一の道だったようだ。大きくS字を描く坂道。難儀坂だ。

雨の日も雪の日も愚痴もいわず歩いた道だった。

坂の手前右手に墓地がある。

坂を下らず墓にお参りするだけにとどめ、そのかわり故郷を一望して終わることにした。

近くを飯山線が通る。

トンネルをぬけると我が家と信濃川の対岸が一望できた。

集落が一望できる、国道117号が走る段丘上から。母屋は大桂一本の繁みで見えない

父の故郷。桂の巨木とふたつ蔵が象徴的だった我が家!

写真中央、桂の聳える家。蔵が二つ、新築の母屋が建つまで仮住まいで住んだ蔵。幼い記憶にもある魂のふるさとだ。

田園のさきに信濃川。対岸は安養寺。その奥は東頸城の山並み、松之山方面

JR飯山線土市(どいち)駅の南西1キロほどのところ。

千曲川河岸段丘の低面にある平野。
天保郷帳によると9ヶ村に分かれていたのうちの一村だったようだ。

信濃川に近くに開けた水田地帯。ここが父のふるさと。

ほかの兄弟が学者になったため農家を継ぐものがおらず、東京にいた父が故郷にもどされることになった。

わたしが東京の高輪で生まれて、3年後のことだった。

以来、高校を卒業して東京へ出るまでこの故郷で過ごした。

集落の真ん中。庭に桂の木が聳えていた。子供のころから、朝に夕に仰ぎみた巨木だった。

我が家のシンボルだった。樹齢はどれくらいのものだったのだろう。

老樹ということから近年伐採されてしまった。

この旅のときはまだ健在だった。伐ることなかったのにと、惜しまれる。

河岸段丘上を国道117号が走る。宮栗バス停

我が家には寄らず予定通り先を進めることにした。

国道117は高校時代、信州、関東の自転車旅行をした思い出多い道路。サイクリングというコトバが流行りだしたころ。その時の起点がこのあたりだった。舗装でなく細かい砕石を敷きつめた道路の時代。

国道117号はこの先ずっと付き合うことになるのだが、しばらくは対岸を津南まで行ってみたい。

国道沿いを歩いてみたものの、すっかり様変わりして、思い出の取り付く島もない。

最後にせめて駅舎までと、行ってみたが旧舎の面影はどこにもない。

脳裏に浮かぶ古い駅舎の面影はどこにもない。

唯一線路とホームだけが昔のままのようだ。

母に見送られてこの駅から、東京へと立った日が懐かしい!あれから何年経つだろう。

昔は渡船の「姿の渡し」がぁった。姿大橋から信濃川左岸をゆく!

国道117号の姿入口で姿大橋に向かう。

姿大橋  新潟県道285号。橋長183.7 メートル。かつては貝野橋という幅3 メートルの吊橋及び木桁橋の有料橋が架かっていた。昭和40年(1967)11月29日にこの永久橋が開通した。

姿大橋の上から小学生のころ水難しかかった川瀬がのぞめる。現場は昔そのままだ。

二筋の流れがここで合流。途中から水流が勢いを増し渦を巻いて淵に吸い込まれてゆく

夏休みが始まった、ある日のこと。

川波にのりプカプカ浮かんでいた。すると急に流れが変化した。

正面をみると川が蛇行し水流でえぐられ、洞が口をあけている。流れがそこに吸い込まれてゆく。

体もその方にぐいぐいjひっぱられる。とっさに危ないと思い我武者羅にもがいて横波をきって流れをのがれた。その間、何分ぐらいなものだったろう。

危機一髪だった。判断が遅かったら。そう思うと、今でもぞっとして、鳥肌がたつ。

泳ぎがさして達者じゃないのにあっぷあっぷと、おぼれもせず、ともかく一命をとりとめた。いまある命はそのときのものだ。そういうとおかしいが、いまでも郷愁のようなものさえ感じる。

あれ以来、信濃川では泳いでいない。トラウマにかかり、水が怖い。

淵が深くえぐられ流れがぐいぐい飲み込まれてゆく。

上流の川幅が広くなったくらいでムカシとそう変わってない風景。

河岸段丘の低地集落。川沿いの小平野。「大田島村」だったから昔は島だったんじゃないかな。

橋を渡ると「姿」。県道49号が走る。江戸時代には信州街道(善光寺街道西通り/市川通り川西道)として利用された。

信濃川の対岸を大雑把に貝野とか、姿、安養寺などと呼んでいたが、どこでどう区別するのか知らないままにきたので、ちょっと調べてみた。

江戸時代は貝野村六ヵ村のひとつだった。

明治22年(1889)4月1日 、 町村制施行に伴い中魚沼郡貝野村が村制施行し貝野村が発足。

昭和31年(1956)9月30日、 村域が二分割され、中魚沼郡中里村及び水沢村に編入され消滅。

ということで、姿、安養寺はどちらも貝野村の字の呼び名だったのだ。

昭和31年(1956)中学一年の秋だったか。対岸の生徒が編入学してきた。あれはこのような行政変化があったからだったかと今更ながら懐かしさをおぼえる。

「姿」ただの一文字。興味深い名だ。由来を知りたいと思うが文献がない。

信濃川を隔てていつも夕べを告げてくれた寺の鐘!アレは何処の鐘?

♪夕焼け小焼けで日が暮れて、ではないが、いつも対岸から鐘の音が響いてきた。どこの寺の鐘なのか問うこともなかったが、それを探ってみよう。

橋を渡ると広くは貝野村。信濃川の西側、,左岸に面した細長い村だった。

かつては姿村・安養寺村・新屋敷村・本屋敷村・堀ノ内村・宮中村の六ヵ村であった。村名はこれら六ヵ村の総称であった。

貝野という名前は「貝塚」に起因するものらしい。

北の端に開けたのが「姿」で南の端が「宮中」ということになろう。

姿

姿に入ると珍しい名の社がある。このあたりでは宮中にもあるが、由来がわからない。

箭放神社(やはなちじんじゃ)

信濃川の畔にあったが、水害がたび重なるので、永享元年(1492)に神社を移し、さらにその後、現在地に再移転されたのだという。

「姿」の次が「安養寺」。

安養寺

「時の鐘」は安養寺この鐘だった。今も鳴り渡っているのかな。

かつての貝野村六ヵ村の一。正保国絵図に村名がみえるらし。

安養寺の名は往古ここにあったと伝えられる寺名に由来するという。元禄5年(1692)の村明細帳には名が見えないので、かなり古い昔のことであるらしい。

それには正観音を本尊とする観音堂の記載があるそうで、それが現在の円通庵という。

円通庵本堂 堂々とした樹齢を誇る杉の巨木
天井絵。まわりに正観音。

通り沿いにみた。商家かな。「板屋」と染め抜いた暖簾が渋い・

新屋敷・本屋敷

安養寺と堀之内にはさまれて新屋敷・本屋敷の集落が続く。屋敷の名だけが歴史を含んでいるような」感じがする。

勝手な想像なのだが、堀之内にあったという天尾山城(あまおやまじよう)という城の縄張りが絡んだ「屋敷」なのだろう。

時代劇の股旅ものに出てくる街道のワンシーンのよう。こういう風景を見るとタマンナイね。

堀之内

集落の名は西方に天尾山城(あまおやまじよう)という山城があった。「上杉軍道」の、春日山城を結ぶ中継地の役割を持った城。その城の縄張りのうちの、空堀に由来しているものか。土塁とか櫓台と思われるものが残るとか。

由緒ありげな社寺がポツンポツンと立つ。管理はすこぶるいいのだが、残念なことに、どこも来歴を記したようなものがないのが惜しまれる!

堀之内の阿弥陀堂

宮中のダムが近い。

堀之内の八幡神社

東京首都圏のJRをご利用しているみなさん!ぜひ一度は見に来てくんなんしよ!ここが山手線が走る電力の源なんだすけ!

宮中堰堤(みやんかえんてい)・信濃川の宮中取水ダム~遠望し展望し眺望する!

新潟県十日町市(旧中魚沼郡中里村)、一級河川・信濃川本流中流部に建設された重力式コンクリートダムである。東日本旅客鉄道(JR東日本)エネルギー管理センターが管理する企業私有ダム。

宮中取水ダムから取水された信濃川の水により、千手・小千谷・新小千谷の三発電所合計で認可出力449,000 kWの発電を行い、北陸地方でも屈指の発電量を誇る水力発電所となっている。

この三発電所は総称して信濃川発電所(しなのがわはつでんしょ)と呼ばれている。(wikipedia)

*JR東日本は電車に使用する年間発電量の58 %を自家発電でまかなっているが、その40 %にあたる14.4億 kWh/年は、この3発電所によるものである。信濃川で発電された電力は送電線・変電所を経由し、山手線・中央線・京浜東北線など首都圏における枢要交通機関を支えている。(wikipedia)

堰堤がとじられると、下流の水量が減り、石ころ川原になる。

 

「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」の作品のひとつ。

高さ16.4 m(メートル)の重力式コンクリートダムで、河川法で規定されるダムとしては信濃川本川に建設された唯一の存在である。

千手発電所 (120,000kW)
小千谷発電所 (123,000kW)
新小千谷発電所 (206,000kW

宮中取水ダム左岸より取り入れられた水は浅河原調整池(アースダム、37.0 m)を経由し、まず千手発電所で発電に利用される。

その水は下流の山本調整池を経由し、1951年(昭和26年)完成の小千谷発電所(おぢやはつでんしょ)でも発電される。(wikipedia)

人造湖なのだが名称が付けられていない。

たんに「宮中の堰堤」と呼ばれ、小学生らの遠足の場だった。

黄桜の丘  信濃川発電所宮中取水工事による残土を盛り上げた人工丘。薄黄色のサクラを植樹した公園で、春にはお花見が楽しめる。

昔は、貝野村宮中と、田沢村の枝郷小原の間に「宮中渡し」があった。

宮中橋 新潟県十日町市小原~ 宮中の信濃川に架かる。国道353号。橋長262 メートル。旧中里村の信濃川左岸と右岸を結ぶ唯一の橋。上流側に宮中取水ダムがある。着工から9年の歳月を経て昭和52年1977)10月24日に開通。

小石の混ざる川原。

宮中橋を左岸に渡り右手に開けた田畑の農道をゆく。

JR飯山線の鉄橋を撮りたい。辺鄙なところにある。近寄るにはこれしかないとみた。

第5信濃川橋りょう  中魚沼郡津南町ー十日町市。JR飯山線 越後鹿渡駅~越後田沢駅間。昭和2年(1927年)架設。 143.1メートル。土木工学会歴史的鋼橋に選定されている。

ふたたびクロスの多い田畑の道をジグソーパズルのようにたどり、ようやく清津川に架かる清津大橋のたもとで117号に出ることができた。

途中、対岸にもうひとつの発電所。東京電力・信濃川発電所がみえる。電力ランドのよう。

清津川が合流し水量がぐんとあがるところ。

東京電力・信濃川発電所  信濃川・千曲川水系で最大級の発電所で最大出力は181,000kw。上流の西大滝ダムでの取水している。運用開始は昭和14年(1939)。

上流の西大滝ダムから2条の導水路でおよそ21km離れた津南町まで運ばれてきて発電される。

中里村時代のモニュメントがある。

清津川に架かる清津大橋/橋のたもとに雪ん子の像

清津川  信濃川水系の一級河川。水源は上信越高原国立公園指定地域の佐武流山・苗場山など。日本三大峡谷のひとつ清津峡があり、十日町市田沢で信濃川に合流する。

一方、この球は何をあらわしているのでしよう。

このあたりからポツポツ雨が。

橋を渡ると津南町。

橋を渡り400メートルほどさきの石原橋停留所のところから右手に大きくカーブする坂道をゆく。1.3キロほど。

右に入ると松之山温泉

下りきると信濃川に架かる豊船橋の出る。

豊船橋

豊船橋(とよふなばし) 新潟県道49号。小千谷十日町津南線。橋長117 メートル。昭和43年(1968)12月開通。

松之山温泉(日本三大薬湯の一つ)

橋を渡ると国道353号に合流。

右にとると越後鹿渡駅。風情のない駅舎がポツンと。

旧駅舎の外観だけでも残しおいてくれたら、ローカル線の価値もあがるのに。なぜ壊すのか。もったいない!

越後鹿渡駅

駅近くの川筋をゆくと低いところに鄙びた温泉宿がある。

辰ノ口温泉・渓泉荘)(近年閉じられた情報があります)

駅近く。津南町三箇 辰ノ口といわれるところ。自然に囲まれた木造建築の一軒宿。春にはカジカが鳴き、初夏には客室の窓辺までホタルが飛び交うことで知られています。

ちょっと閑話休題~懐かし謎~ムカシ話です。

明治生まれの古風で頑固な父と、大正生まれでリーダーズ・ダイジェストを購読するようなハイカラが趣味の虚弱体質な長兄。

なにかと二人は反りがあわなかった。

父はかげでいらぬ愚痴をこぼす。兄は耳をそばだてキリキリする。

ともに口数少なくぶっきら棒。衝突はしなかったが、常に角突合わせていた。

そんな兄が癌に侵された。入退院をくりかえし、自宅で療養していた間のこと。

ある日。どちらがどうして、そうなったのか。

一週間ほどこの宿で湯治をした。

のちに母から聞いたことなのだが。何かが溶けたのだろうと。それが謎だが、よかったと微笑ましく思われた。

それから兄が病死し、追って父も老衰で他界した。

懐かしい謎はあの世に持ってゆかれたまま。

ふたりがここで、一夜々どんなことを思い、どのようなことを語り合ったのかとおもうと、胸がつまる。

辰ノ口、鹿渡、どちらも興味深い地目だが、余り記録がないなか、少しひろってみた。どれも子供のころから聞き知った地名だが、筋立て用とすると「地名に歴史あり」でややこしい。

鹿渡  古くは新潟県中魚沼郡鹿渡村。江戸時代中ころに外丸村に併合、明治22年(1889)、三箇村(さんかむら)として分立。いまは中魚沼郡津南町三箇。

明治34年(1901)11月1日 、 中魚沼郡外丸村と合併し、新たに外丸村が発足。三箇村廃止。

昭和30年(1955)1月1日 – 中魚沼郡下船渡村、上郷村、芦ヶ崎村、秋成村、中深見村と合併し、津南町となり消滅。

津南町三箇 辰ノ口  外丸村の枝郷だった。本村の北。南東の信濃川対岸は下船渡村本村に宮の入り川があり、地名はこの渓流が信濃川に注ぐ形状によると伝える。

枝郷  新田開発や開拓において、その拡大とともに分出した小集落。親郷を中心とする組織に付属した。          

しばらく国道353号を行き、途中で分かれ県道49号を進む。

信濃川左。外丸(とまる)~津南、飯山線に付かず離れずの道をゆく!

雨は本降りになり、止みそうにない。

津南で区切りを付けようと段取っていたから、しぶきを蹴散らして走った。

ここからは撮影もままならない状況。

津南に入ると雨脚は一段と強まり、土砂降りの様相、

合羽を羽織るも用をなさない。

肌着の下まで沁みとおる。

撮影はあきらめ、雨中決行。濡れ鼠なってようやく津南駅に到着。

津南駅  

新潟県中魚沼郡津南町大字外丸丁。東日本旅客鉄道(JR東日本)飯山線の駅

昭和2年(1927)8月1日、飯山鉄道の越後外丸駅(えちごとまるえき)として開業。

平成7年1(1995)4月28日,駅舎を改築し温泉の付属した駅となる。

リバーサイド津南  駅舎は温泉施設と合体。1階にはフロントと食堂、2階に温泉。

敷地をJRが提供し津南町が建物を建設したユニークな構想のもとに生まれた駅舎。

定休日は毎週月曜日(祝祭日は営業)。元日は臨時休業。

温泉のフロントで乗車券の発売を行っている。

ひと風呂浴びるもいいかなと思ったが、帰りを急ぐのが賢明かと、肌着だけを取り換え、自転車を駅下の駐輪場に預けた。

信濃川橋   中沼郡津南町。新潟県中魚沼郡津南町大字下船渡 ~ 大字外丸。国道405号。昭和37年(1962)3月開通。長140メートル。 

津南町 町の中心部は信濃川の対岸にあり、国道405号の信濃川橋がその間を結んでいる。

妻有盆地の信濃川らしい風景。

どこもかしこも墨絵のよう。

国道117号までは約1.5キロメートルほど。

国道沿いの津南役場前まで歩き、湯沢方面行きの急行バスに乗り、湯沢から上越新幹線で東京に戻った。

最後は雨にたたかれた不運の一日だった。



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