信越奥地の秘境・秋山郷(2)
鈴木牧之の『秋山記行』(一)を歩く
天然の恵みあふれる信州・越後の仙境・桃源郷へ
―見玉~清水川原~三倉~中ノ平~大赤沢~甘酒~小赤沢ー
2日目・9月9日~牧之たちは見玉で朝を迎え、信越の国境を越え信州小赤沢へと向かう~
牧之は寒いなか早暁に起き見玉不動尊をお参りしました。
暁に起き、門の細流に手洗して、桶屋諸共に院の傍より間近き華表を潜り、二王門を過きて石階を登る。右の方ハ渓流の落口にて、磐石恰(さながら)算を乱せる如く重なり、白瀧漲り、砕散り、古木に旭の光りを覆ふ。やかて御堂ニ詣ければ、 果而通夜の老若の女性・雅子なと諸共に並居るは、禅室に入るか如く、始めて此尊の中宮を拝し奉り終り、又 手のひら程の境内の辺りを見巡せば 奇石怪厳に目を悦ばしめ、
と、その様子を記述しています。
御堂から宿坊にもどり朝食を取るが、
宿坊へ帰り膳ニ向へば、夕への茄子の暖め汁に、菜もゆふへの茄子漬にて、きのふハ透腹に甘露の味ひの汁も、冷飯も、茄子漬迄も苦く、兼て用意の梅干に胡麻・味噌取出すに、桶屋は院主の妻の優美に見とるゝを、
夕べの残り物が並ぶだけなのでいささか閉口。そこであらかじめ用意してきた梅干、胡麻、味噌を出して捕食とした。桶屋のほうは何ら頓着なく、僧侶の妻があまりに美しいので、見とれていた。
そこで牧之は皮肉と笑いをふくめ狂歌を詠んだ。牧之はどちらかというと食に口うるさい気質のようだ。
紫のゆかりの茄子色さめて山の奥まで秋風のたつ
国道405号線・林道東秋山線をゆく
国道405号線 群馬県吾妻郡中之条町から新潟県上越市に至る一般国道。野反湖から長野県下水内郡栄村の秋山郷までの区間は未開通という珍しい国道。.


こうしたのち二人は正宝院を後に秋山のさらなる奥地へと向かった。
しばらく原文でみてみよう。
此院を立て秋山迄は村里なし。暫(しばらく)往て清津川(中津川)の東の方の山の尾崎にかゝり、此辺りまた見玉の持分んにして、古木道路に生ひ茂り、或山の中段や、又は平らを焼払ひ畑となし、粟・稗・大豆・椽のもの耕作し、
清津川であるわけはなく、ここは中津川の間違い。
*中津川 群馬県、長野県および新潟県を流れる信濃川水系の一級河川。群馬県吾妻郡中之条町大字入山の北部の野反湖。周辺にそびえる山々から流れ出た渓流が野反湖へ注ぎ、湖の北端の野反ダムより流出し北へと流れる。この時点では千沢とも呼ばれる。魚野川(魚沼市を流れる魚野川とは異なる)を合わせ、切明温泉で雑魚川を合わせる。秋山郷の集落や中津川渓谷を流れ、新潟県津南町大字下船渡で信濃川へ合流する。
平地とみたらどこもみな焼き畑で耕作されていた。
弓手には幾重ともなき山重なり、西の山の尾崎に、秋山村々の入口下結東村見え、其中央を清津(中津川)の谷川涓々と流れ、又両岸の大磐石突出し、或千巌万木往処として屏風を開くか如く、目枯せぬ詠(ながめ)に、丹梯(さかみち)の嶮も是か為に忘れ、やゝ秋山の入口清水川原となん村近く、いよいよ老樹枝を交へ、白日の光を覆。


このあたりはまだ見玉村の内。
この分岐点より左は「林道東秋山線」。次に続く右岸の清水川原集落はこの方向。
Response stopped
林道東秋山線 新潟県津南町と長野県栄村を結ぶ秋山郷の山間地域を通る林道。平成9年(1997)に開通した。
秋山郷(あきやまごう) 新潟県 中魚沼郡 津南町と長野県 下水内郡 栄村とにまたがる中津川沿いの地域の総体名称。 東を 苗場山 、西を 鳥甲山 に挟まれた谷筋の道、国道405号沿いに点在する12の集落の総称で、 日本の秘境100選 の1つ。左岸には見玉、清水川原、大赤沢(ここまでが新潟県側)。(長野県側)中ノ平、小赤沢、湯元、屋敷、上野原、和山、切明などの集落が点在する。
越後秋山郷・清水川原
見玉不動尊を出発し、牧之たちはいよいよ越後の秋山郷に入ります。最初の村は「清水川原」。
清水川原の少し手前は狭い断崖。このあたりをヨコテと呼び雪崩の多発区間で冬期はしばしば交通不能となったところ。開通は昭和に入ってから。
牧之はこの断崖の上を歩いた。
最近になってスノーシェードが設けられた。
ふたりは途中に焼畑を見ながら清水川原という村に出る。
清水河原と対岸の逆巻とをつなぐ橋に「猿飛橋」があるが牧之は帰路の道中でその橋のことを詳しく記しているので、ここではごく簡単に。
中津川の川幅が一番狭くなっているところに架かる橋だ。
道々の視界に入る耕作地の大方は焼き畑農業だった。
西の山の突先に下結東村が見え隠れする。
見飽きない眺めなので、牧之は坂道の険しさも忘れてしまうほどだった。
といった原文通りの原色の景色は今はないが、そうこうして歩いているうちに前方に民家のある山里が見えてきた。ブルッとするような懐かしさが走った。

まるで向井潤吉の絵をみているようだ。何処にもあった日本の原風景。
*向井潤吉 生涯の主題として古い民家の絵を描き続け、「民家の向井」とも称された洋画家。世田谷区弦巻町に世田谷美術館の分館として「向井潤吉アトリエ館」がある。


是より間もなく、秋山一番の入口、清水川と云ふ村に至りぬ。
秋山口張七五三 岸如屏風中津南
此処仮字読高札 疱瘡村総忌女男
牧之この旅ではじめての五言絶句である。

清水川原の入口で、牧之は異様な光景を目にする。
少し小高き処へ登りけるが、七五三縄(しめなわ)張りて、其真中にいさゝかなる高札あり。読みて見れば、はうさうあるむらかたのもの、これよりうちいかならすずいるべからずト、仮字(かなじ)に童蒙(わらべ)の筆らしく書て建たり。
暫く休らへて桶屋に評して日、何れ秋山人ハ正直一遍の所なるべし、譬(たとえ)里人疱瘡ある村ニても、商人・薬売(くすりうり)などは此方の村には疱瘡はないと唱へて入べきに、扨て可笑(おかしき)事ならずや。
*庖瘡(ほうそう) 天然痘(てんねんとう)とも。天然痘ウイルスを病原体とする感染症の一つ。ヒトに対して非常に強い感染力を持ち、全身に膿疱を生ずる。致死率が平均で約20%から50%と非常に高い。人類史上初にして唯一、根絶に成功した感染症である。


「ほうそうある村のものこの先立入禁止…」と。道にシメ縄が張られ、ほうそうの患いある村からの人を入れないお触書であった。団蔵が言うには、秋山の人々は正直者だから、庖瘡(天然痘)の出ていない村から来たと言えばそれですむという。
是より間もなく、秋山第一番の入口、清水川原と云ふ村に至りぬ。
と、ここで牧之は手書きの信州・越後の「秋山郷全図」を挿入している。



牧之の時代とちがい平地にはわずかだが田圃もみえる。


此処家算(かぞふ)れは纔に白屋(くさのや)二軒、壁と云ふものなく、茅をもて、四方の柱壱本も、 二軒ながら見えず。荷そひ桶屋が入魂なる定助と云ふ家路さして行。傍に青黒き真石の、大なる一ッ岩の凹より落る瀧は、格別高きと云ふにはあらねども、其の光景いもいわれず。


二軒あるうちの定助という人の家でしばし休憩。お茶をもらう。
頓(やがて)てそこの家へ休らふに、幸ひ、主も草鞋かけにて居合せ、果而(はたして)先ず疱瘡の事を問ふに、去春以来、上田も、取はけ鹽沢にはないと云ふに、主か云ふ、うちらは今としは井戸蛙のやうに里へは一度も出なんだと答ふ。秋山人は夷同様に思ひしが。其人柄格別里人に替る事なし。さりなから、其妻半斤ばかりも入りし茶袋を出して鍋欠の耳の処を持て俄ニ茶を煎り、大なる白木の垢附たる盃に、茶椀二ッ並へて出しけるに、其妻茶筌にて大なる茶椀に茶を立てるを、予もそれ一つと乞ひけるに、先づ一盃は立てず、呑なさいと云に、手に取る時、地走らしく一盃に汲んたるを、手震ひこほれて堪へかたく、
指先きににえ茶こほれて忍かね腹に立てとは是を云ふらん

牧之はそうした間にも廻りを見まわし、この地の民家の造作などについてこと細かに観察をおこたらない。

又 此家の内壁を見るに、横に三尺位づゝ隔て、細木のはつ敷を柱に入て、葦簀(よしず)を竪に結附、外面は図の如く茅にて柱壱本も見えず 、とびとびに窓も甚少て敷もなし。仏壇と見へ、縄を以て板を釣り下げ、古き仏画の掛軸一・二幅かけ 太神宮の御祓・恵比寿・戸隠の札も張り見えたり
丹梯漸過二軒村 此地云清水川原
環堵立寄乞*茗 俄焚巨火炉辺温

やゝ暫の噺に屋上を見れば、山菅の長きを沢山さうに揚けて見へ、門口には三・四斗も這入桶に杤の実を水にさわし、家の前後には粟・稗やうのもの干並べたり
栃の実、粟、稗。どれも田の少ない僻村の主食となるものだった。
牧之と団蔵は三倉(見倉)へと入る。
記行では「三倉」としている。
越後秋山郷・見倉
秋の日の短きに、主が長物語を厭ふて、流石茶代の料も所めかず、有あふ短尺五・六枚書呉ぬれば、何遍となく頼によって、其句を読聞かせ、此処を立出るに、
お茶代として持ち合わせの短冊5,6枚書いて渡したものの、村人はこれを読めない。読んでくれと何度もせがまれるので、牧之は読んで聞かせ、そしてここを立ち去った。
短尺とは、現在でいうところの色紙みたいなものとみていいであろう。

牧之たちは見倉へと、樹林の中の道なき道をたどった。

次第次第に幾囲とも云へき諸樹乱雑して、数間の磐石 塁々としてちまたに目を驚し、或は山の尾崎には、枝なき大木、さなから冬枯の如く焼灼(こげ)て、ひゅろひゅろと立し處は、多くは村家に近き場にて折節は白日の暉事の嬉しく、皆山畑にして畝らしきは一筋もなく、廣々と見切りもなき果は必例の大樹真暗闇に立並ひ、 偏に仙境に入が如し。
ここにきて牧之は「偏に仙境に入が如し」といった心境になる。
くねくねした険しい道。奇怪な形の樹木や岩石に驚く。焼畑が済んだ山の畑。見えるのは自然ばかり。

適々(たまたま)鶏犬の声を聞ては桃源に迷ふかと怪み、果て人家近く三倉と云ふ三軒の村見えければ、先に云し如く村家の辺りは、木・茅もなく 皆皐(おか)畑にして、時は晩秋の半なれども、多くは刈果て、只処々に大小の磐石の、畑中に處々に据るのみ。
静寂の中に突然、鶏や犬の鳴き声がする。まるで「桃源郷」に迷い込んだようだと評している。
現在も戸数四軒の集落。秋山らしいたたずまいを残している。
*ちなみに、秋山郷では、一軒でも村とみなしていた。

折柄小雨降にて、道の邊(ほと)りの草の家の木皮の扉開らきて休らうに、茲も又清水河原の如く、 三軒共ニ壁付たる家もなく、茅掻附てさても暖かそうに見ゆる。
何れ暮秋の山挊に男たるは一人も見えず。七そじ餘の老婆火を焚なから、ゆうちなったと挨拶、亦其娘らしきが籠に栃を捨ふて帰り合せ、懇切ニ貯の茶と見えて小さな袋より出し 三升鍋位の欠たる三角形りの底らしきににて茶を炒る。都(宇部)て此渓谷の村々は、深谿の流清例にして能く茶に合ひ、元来村毎に喉渇きて数盃を傾け、
秋山もやかてこかねの花咲て煎茶の色も山吹と成る
一休みを頼んだら、「よう来なさった」と挨拶される。
男の姿はなく、老婆と嫁らしきものがいる。
欠け鍋で煎った湯茶をさし出される。牧之はホットして茶をすすり、歌を詠んだ。
徐到三倉里 覗見樹皮扉
老婆焼火坐 婦桾杤違
霜晒海藻髪 雨濡小忌衣
何事如夷狄 努々不可非
ついでだからと昼食もとらせてもらうことにした。
茲ニ中食を遣ハンと、大小の粟毛を取出し、奈良茶碗を乞ふに、棚元の辺りしはしうろうろして見えしが、又 、茶碗を取り出すにぞ、焼飯を幾度かに小さに割りて 茶漬飯にして喰へ侍りぬ。
持ってきた焼飯をお茶漬けにして腹におさめた。
昼食を終えるとまた牧之流の観察眼が周囲に注がれる。
家にあるは女性の事故、何に問ふ事も力なく、家内を見廻すに、仏檀と見えしは、こゝも 亦釣り棚にて、 白木の煤けたる位牌二つばかり見え、菊杯も手向けてあり 膳棚と覚しき処は、宛山師の小屋の如く、摺鉢やうの物も見えず。
聞きたいこともあるのだが、女では、とはじめから諦め顔の牧之。
抑々秋山と云ふは、近代、大豆も出来るうへは、味噌煮しても鹽ばかり、糀は少しも入ず、何を煮、何汁を仕立ても摺らぬ味噌鍋に入れ、鹽を掴込むとの事故、何(い)カさま心附て見るに、摺鉢は見へず。さりながら、大小の桶は數々見えたり。
我輩も秋山風ウに、土足ながら、頗(すこぶる)破れ穢たる筵のうへに寝転んで、予老婆が海藻髪の乱れたると、小忌衣(おみごろも)にいかにも憔悴したると、其娘らしきか髪おどろに、櫛さへ入ず。
牧之も秋山の風習に倣い、土足のまま、破れ汚れた筵の上に寝転んでみた。
往時の地方の民、百姓は着のみ着のままでゴロンと横になるのはあたりまえ。そうして一時でも体をやすめたものだった。
老婆のぼさぼさに乱れた髪、粗末なぼろぼろの着物、嫁らしき女の髪もぼさぼさで、櫛など使っていない様子、そんなこんなが目にとまった。上から目線で、まるで粗探しをしているようだ。
既立んとする時、置土産に、牛に對して琴を弾ずる如く、短冊五・六枚書いて読聞かせ、こゝ元を出立ぬ。
ここでも土産に短冊を記した。あらかじめ読んであげているが、「牛に對して琴を弾ずる如く」(愚かな者には、いくら立派な話をしても何の役にも立たないことのたとえ)のことわざは、接待でお茶もご馳走になっているんですから、ややひどすぎますね。





トンネルのわきから細い山道が続く。牧之も歩いた道であろう。

牧之のころはごく当たり前の栃の木だったか。
行ってみよう。指標通りに分け入ってみた。




分け入っても分け入っても山の道。


行けども行けども山道が続くばかり。熊が出没しないかとの気がめぐる。
まだあるみたいだ!一向に先が見えてこないので不安になってきた。

無念だが引き返そうと決め、あとは脱兎のごとく、フルスピードで林を抜けた。

ストンと道路に出くわした。ホットした。冷汗が一気に止まった。

中型バスが停車していた。お蔭で不安が消え人心地が付いた。
道路を挟んだ向かい側は、広々とした野っぱらで、使われているのかどうか。曖昧な建物がいくつか。


何んとここが『秋山記行』に出てくる、かつての「中ノ平」集落の跡なのだ。
中津川の支流の中ノ平沢沿いにある。
草叢の中に看板らしきものがちらばっている。食堂や「ペンション」などがあったようである。すると今は廃屋なのか。
バスの駐車スペースもそのためのものだったのかもしれない。



牧之の時代はここに村があったのだ。二軒だけの集落だった。
越後秋山郷・中ノ平

是より中の平ラ村迄同しく嶮路屈曲して、凡半道ばかりと云ふも、里地の一里余にも及ふへし。其道すから、濛々たる若干の大木原あり、奇樹怪石は迚(とて)も毫(ふで)に尽しかたく、辛ふして又広々たる処に出る。
山林を焼払ひ、いまたその中ニ大木は朽もせず()もせず、倒れたる大樹も木肌を顕して畑中に横たはり、かゝる岩石も邪魔とも見へず、粟杯に大小ありて、小なるは小指の如き穂あり、大なるは猫の尾の如し。其種も又さまさまなりと 暫草の筵に休んて遠こちと詠(なが)め、かゝる山畑見へければ 中の平ラ村近しと笻(つえ)を曳往程に、間もなふ其村に至りぬ。此処哀れに漸々家二軒、時知り貌に家の側に菊の咲を見て
山里に咲て見せたり菊の花
兎(と)ある桶屋か知り人の家へ立寄りぬれば、爰も又娵姑らしく見え、そんた衆能うちなったと云ふ時宜の挨拶にすかりて、ちぎれたる筵のうへに横たはり、又しても男らしきもの秋のせわしさに家に居らす、何問はん便りもなく、只夷狄に入る心持して、両婦の鼻のいかにも低きに題し、又 、此処中の平らと聞くからに。
たった二軒。立寄ってみればここも嫁と姑らしい女性が2人だけ。またしても「そなた達、よう来なさった」と丁重に挨拶される。牧之はさっそく女性観察をはじめる!
ほゝ高く又其うへに鼻まても中のたいらの娵にしうとめ
中の平に鼻の平を引っかけた駄洒落た狂歌だが、朋友十返舎一九の戯作の影響でもあろうか。
頬高鼻低見嬪姑 白屋寂寥猜妖狐
故唱此地中平邑 言話漸今更如愚
其二
千盤斜傍潤川通 寂々茅簷粟畝中
始識幽棲多感慨 猿声幾処叫秋風
かたつぶりのやうな戸口をよく見れば角のもけたる平家落人
扨ても煙草吸ふ内に、出流れの真黒ろな茶を、大なる、足なき、手さしらしき折曲ヶの白木の杤膳に茶碗二つ並べて、是一ツ呑よとさし出し、又、茶の給仕して今一盃呑ずよ(いふ)。
「出流れの真っ黒な茶」とは。誇張だろうがいささか度が過ぎているようだ。
心のうちに一興して、迚(とても)も急かねば小赤沢の泊り遅からんと、日光も山と山との渓合にて空さへ狭く覚ひ、既に日西山に傾んとしても、里地の七ツ時ニも届かす。
ハタと戯れている自分に気づき、こんなところで無駄を貪っている場合じゃないと、あわてふためいて出立する。
此処にも矢立の筆は持ちつゝけ、同様に勝景大胸に写し 狂詠・礫句(れきく)を吐、たにざくを此家にも置土産して、暇申て行かんとする時、出先に二筋の道あり。何れの道と尋れば、本道の方を指さして、こう往くいもうと云ふに、桶屋先に進み、此道かと云ふ。そふ行きすと云ふ
ここでも短冊を置土産にしているが、あらかじめ読んで聞かせたのであろう。
牧之たちは、本道と指示された山道を行った。

山が深い。

松沢橋が見えてくる。牧之のときは沢越えだったのだろう。





豁下に赤い「前倉橋]がチラと見える。対岸の前倉集落を通るときに寄ることにしよう。

牧之の時は、大赤沢側から橋は見えなかったのであろ。記述されていない。勿論、朱塗りなどではない。









国道はこの先で中津川に架かる「前倉橋」を渡ります。

越後秋山郷・大赤沢
大赤沢村まで厳しい道を歩く。大赤沢は越後と信濃の国境付近の越後側にある村
茲元(ここもと)を立退き、しばらくは家近きかして、山畠連々と果てしなき程、只幾度も若干の奇石に感を催し 我か庭前に一ツものしたしと及ばぬ力も長途の労(つかれ)を慰貌に、桶屋と囁なから谿に降り皐に登り、漫(みだり)に谷川の音に魂を冷し、山嵐に目を爛(とらか)し、興ある内にも嶮路の苦心もせちにして、屡々欝々森々たる大樹下の磐石に節を駐(とめ)、いとゝ往先の行路難難たるを推量して、竹筒の外夏を傾け、倩々(つらつら)思ふに 今朝いと早く見玉村を立しより、往来の者、樵父だに一人も逢す。
行く手はどうなるのだろうと思えるほどの険阻な山道。それにしても、見玉を出立してから人っ子ひとり合わない深山幽谷の行路。

斯(かくて)行先毎に村々繁くあるに、実にや人界の外の人界と謐(つぶやき)々往程に、又 例の山の尾崎の畑、処々に見へ渡り、大樹何程となく、麻の如き真直なる二た囲、又は五かゝいも有ぬべしと思ふ椈(ぶな)・杤杯の雑木横たはり、
ブナ、栃の巨木の群がる林中をゆく。
其前後左右畝無き畑にて、遠く村屋を離たる山畑には必小屋かけありて、裾より茅を以て葺上げ、昼は女、夜は男、替る替る猪・猿の畑を荒すを追はんか為に、小屋の外には狗を放し置に、獣出れば必此犬吠追ふと云ふ、故に秋山にては、家一軒に一つ宛は飼ひ置くとなん、又 鶏も飼ふて鶏卵を取り。是稗・粟にて育て、心安き故なる覧。
畑を荒らす獣を追い払う番小屋。番犬も放つ。牧之は山里の苦労を観察する。
先きに鶏犬を聞きて、桃源に入るかと怪しみしとは書し也。今程は晩秋故、山々の木の実・草の実繁れと、獣の出るも適々(たまたま)のよしにて、半過は小屋畳み、竈の跡も見えたり。
秋山では獣よけに家々で犬を飼っていたようだが、近頃はどうなんだろう。日通し歩いてみたが秋山郷で犬の遠吠えを聞くことはなかった。

大赤沢ン入る。

「既にして当国魚沼郡の境、大赤沢村ニ至りぬ。」
大赤沢が越後秋山郷で最後の村だった。
ここには昭和61年に開かれた苗場山の登山口がある。5時間コースという。

道の左の方森々たる古木の中に一社あり、村人に尋ねぬれば八幡宮と唱ふ。
中は左甚五郎作のよし申伝へしとかや。
茲に於て予 疑惑頻内也。抑々(そもそも)此秋山は平家の落人と申伝ふに、秋山の中央の村にて何んそ源家の宗廟を氏神に祭らんや。
平家の落人と伝わるのに八幡宮とは、これ如何に?と牧之は疑義する。
此大赤沢には能くゝ発明したる智者藤左衛門、齢は八旬に余る翁のよし、殊には桶屋が定宿とあれば 是を尋ね問はんと忙しく往く外面を窺ふに、此村九軒の内にても、経営も実に福祐に見えけるに、予は、御老人しばしが間休足を願むと、敷居に腰打掛くれば、是は是は、こんな山中へ能ふちなされたといふ。
桶屋の常宿で一服。
主は智者の藤左衛門という人。
「こんな山中へよく来なさった」と歓迎される。




此家の山畑挊の留守居とて、主翁は薄き山菅織りの畳二枚敷いて、十歳余りの童を相手に煎茶杯と心を砕くやうに見請ければ、是れこれも咽乾かず、腹も減らず、些と昔今のもの語り、謡ではないが、語って聞かせ候へと、頻に云ひなから、
老人は子供相手に留守番。いいところに出くわしたと牧之。茶の接待もそこそこに、さっそく聞き取りに入る。
予は畳のうへに、土足は筵のうへに寝転んて法螺を耳に当て、先此方より忘れぬ内に問ひませう、此村の入口に宮居あり、人に問ふに源氏の八幡宮のよし、都而秋山は平氏の一族と心得たに、此義訝しと問ふ。
源氏の守り神である八幡宮があるのは、平家の一族としてはおかしいのではないかと。牧之はすかさず疑問を投げかけた。寝転んで聞くとは、対面からよほどウマが合ったのであろう。
老人の答に、こんたいはれる通りなれども、此大赤沢に限り平家にあらず、小赤沢より上、其外の村も平家の末葉にて、此処は八幡大菩薩の氏神と答ふ。
何とも矛盾している。このことが秋山郷の平家落人伝説を肯定しきれない、ひとつの理由になって今日に至っている。
八幡さまの質問をきっかけとして牧之と藤左衛門は大いに語り合う。
翁又申には、世の中は天変いたしかたく、かゝる立木も知らぬ山中迄驕り増長して、拙(うら)の若い時分とは、天と地と、白いと黒いと云程違いました。
老人の繰り言が続く。牧之は頷きながら耳をかたむけた。
翁か云ふ、昔は此地杯へ里人なと往来も稀にして、第一食物様のもの、若い時とは、皆驕り強く、 杤・楢の実を沢山に喰ふたり、今ては粟や稗勝なとに喰ふ家もあり、こう奢か増長してはならぬ、是には困り申した。
去りながら、まだ古風か残って、酒の、胴落の、女色・博奕杯は知らぬ処と云ふ。
食べるものなど、若いときとは違って皆ぜいたくになった。昔は栃や楢の実を食べたものだが、今では粟や稗を多く食べる家が出てきた。こんな奢りがひどくなってはいけない。これは嘆かわしいことですよ。
繰り言は昔も今もかわらないが、翁が今の飽食世界を見たらどんな感想をもらすだろうか。
だが、捨てたものではない。奢侈や道楽、博打などは一切ないのが幸いです、と翁はいう。
翁は此村にて長らしく、座敷らしき所も少しの間椽張りて見え、門先より家の前後に、幅弐尺四・五寸位の松の厚板、数々干し並べたるを問ふに、能々深山の奥より伐出し、里の商人の注文でこざる。
実に鳥獣ならで人も通らぬ深山幽谷にかゝる奇石も有ぬへしと、一点の節なきを賞翫いたしぬ。
秋山郷が昔も今も銘木の産地である証明。それがよく伺える記述である。
爰元(ここもと)には茶代の替りに、短尺数葉書遣して、再会期しかたきと暫(しばらく)踟躊(たちもとお)り、正月言葉に、又来年再遊と、名残惜しくも草臥足引立て往程に、翁も名残をしみ呉れ、 一丁斗りも素はだしにて見送り、能ふいなされよと云ふて別る。
神ならえ芸に交る我々をはたし詣のやうに見送り
意気投合したふたりの別れ。無念さが漂うシーンである。

国道を行くと目に止まる「工芸品展示場・山源木工」。

山源木工 秋山郷の原木を加工した家具の展示場と工場。樹齢数百年もの栃やブナなどを加工した家具が陳列されている。


栃の大木を輪切りにしたテーブルや大小の「こね鉢」、臼などの造形には圧倒される。

国道405号線沿いの駐車場から10分程度。
右に急な山道を谷底へ下ると、左下に白い飛瀑が見えてきます。
遊歩道を進むと観瀑台。ここで滝を見下ろすことになる。
蛇淵の滝 新潟、長野の県境を流れる硫黄川が、中津川に流れ落ちるところにある落差10メートルの滝。三段あり全長30メートル。褐色の岩肌を勢い良く落下する姿は、周囲の自然と調和し美しい。



牧之の時代はさほど知られてなかったのか。記述にはない。

滝には近寄れず遠目の展望台からしか眺める事は出来ませんが、それでも迫力満点。
*硫黄川 苗場山(2145メートル)から流れ下る川。中津川の支流。
*伝説 昔、熊取りの名人が獲物を追ってこの滝までやって来た。
向こう岸に渡り、振り返ると、丸木橋だと思って渡ってきたのは大蛇の背中だった。恐れ慄きそのことを子や孫に語り伝え、この滝には近寄らせなかったという。


国道に戻り進むとやがて県境。

『秋山記行』での国境のところ。
大赤沢川は硫黄川のことだろう。あるいは、大赤沢川と呼ばれていたのかもしれない。
此大赤澤を立て、又一つの小山に上り、亦溪に降れば、中津川へ出る一條の潤川は、苗場山の邊りの山々より纏(まとまる)。是なん大赤沢川にて、兩岸に大樹枝を交び、日の光りだに見えず。大石疊と重なり、其磐石の合より溪水ほと走り、到處(いたるところ) 佳興なら[ざるなし]と、云うも更なり。懐敷哉、此川上こそ、星霜十七八年の昔登山して、近國まで一目に眺望せし其下流、責(せめ)て清流を一口なりとも呑ばやと、水汲もなく平ら手に味ふに、宛氷の如く五臓に入む。


堺橋 新潟県・長野県の県境。
中津川の支流の硫黄川。
*硫黄川 苗場山の麓から流れてくる。

硫黄川に架かる県境の橋。山奥の県境とはこんなものであろう。

大赤沢から小赤沢へ向かいます。

国道405 route 栄村 県境 脇から山道が通じてる。
是より少し右の山の手に、甘酒と云二軒の村あり。
との記述からみて、おそらくこの道をたどって甘酒村へ向かったのであろ。

甘酒村に通ずる山道。指示票が立つ。牧之も歩いた道。


秋山郷には牧之が歩いたと思われる山道がいくつか残されている。
どこも山道だ。自然の被害を受けやすく、季節によってはブッシュになるところもあります。
歩くときはそれなりの装備で、今現在の最新情報を得ることが欠かせません。


分け入ってみました。
山の尾根の縁を歩く感じです。



油断すると谷川に滑ります。



山道ですから、雨のときは危険がともないます。

この山道、指示票はシッカリしてました。

甘酒集落跡からの「牧之の道」。

一帯は広い平地。ここに二軒の甘酒村があった。
信州秋山郷・甘酒村
是より少し右の山の手に、甘酒と云う二軒の村あり。
一宇に立寄り、しばし休足を頼み、腰うちかけ見廻すに、爰にも山挊(かせぎ)の留主にて、女性独りあり。

石垣田は明治になってからという。今は所有者がいるのだろう。
背後で苗場山が見守る
二軒でも村と言っている。ここも男は野働き。女だけで留守番。休憩を頼むそこからすぐさま牧之流の女性観察がはじまる。
色光沢(つや)とて世間の女子に替わらねど、髪に油も附ねば、あか黒くして、首筋まで乱れたるをつかね、垢附たる、手足も見ゆる斗りの短かきしとねを着、中入らしきも見えぬほつれたる帯前に結び、ぼろぼろしたる筵の上にて茶袋などを取り出すをさし留め、小赤沢まては遠し、煙草の火を一つと乞ふに、大木の節穴一はいに土塗り込たるに火を入て出しぬ。抑々(そもそも)清水川原より村々を尋ねしに、是や秋山中にて始めての多葉粉盆と、帰庵迄の一ツ噺也けり。
煙草の火をもらう。初めて出てきた煙草盆さえ旅の土産噺とする牧之。
扨も此処も纔ニ家二軒、雪中杯は嘸や淋しからんと云に、女か答に、雪の内は里の人は一人もこない、 秋田の狩人時々見へ申迄た。
昔より此村は増しもせす、減りもせない、惣秋山中の根本、大秋山とて川西に八軒あったか、四十六年以前、卯の凶年に餓死して、一軒なしに盈したもう、其時も己か村二軒なから、卯の難渋を兎や角凌いたりやこそ、今では楽々と食物(くいもん)に乏(はず)みないと云ふに、
甘酒の村ハ纔に家二軒卯の凶年にこほさぬと云ふ
甘醴二軒邑 二軒無事営
秋山雖増減 卯云凶年盈
牧之が、冬はさぞ寂しいだろうと聞くと、女は里の人は一人も来ない、秋田の狩人が時々見えるだけ、という。昔からこの村は増えもしないし減りもしない。川向こうの大秋山の八軒は四十六年前卯の凶年に全滅した。その時は難渋したがなんとか凌ぎ、今は食い物に困らないと話した。
牧之は胸に迫るものがあったのであろう。餞(はなむけ)に歌を詠んだ。

そうし甘酒村だが、牧之が訪れた時から10年後、天保7年(1836)。天保の飢饉に襲われ滅びてしまった。女性一人だけが助かり、小赤沢の親戚の家に身を寄せたがまもなく旅に出て、その後に消息を絶ったというミステリアスな話が伝わっているという。
集落の家屋敷跡は、後に水田を拓いたとき撤去され、墓地だけがここに村があった証となっている。
秋山郷では凶作や飢饉は死に直結していた。明治以降も飢饉に見舞われ、畑作の収穫はゼロ、草や木の根を食べてしのいだという、古老の話が伝わっている。
小赤沢への道野辺には庚申塔が多い。庚申講が盛んだったのだろう。







今でいう過疎ともいえる集落なのに、信仰の深さを感じさせる石造があちらこちらに。

信濃秋山郷・小赤沢
「小赤沢」村に着く。
是より小赤沢は程近しと尋急ぐ。左右を眺に、巽の方と覚しく、苗場の頂出頭して見へければ、
紅葉ばわけ登りたし苗場山
ひと夜寝し秋を慕うやなへ波山
二句を読む・
牧之は苗場山を仰ぎ見て感傷にひたり、あらためて感動する。
小赤沢からは苗場山がよく仰げる。
古くから苗場山への登山ルートだった。

*苗場山 標高2145メートルの山で、山腹に点在する池塘が苗代に見えることから「天の苗代」として信仰されてきた。


紅葉ばをわけ登りたし苗場山
ひと夜寝し秋を慕ふやなへ波山
又、西の方に當り、赤倉山(鳥甲山)の其頂石巖尖に鋒、其萬仭の峯より少し下に石鉾と云ふあり。
本は三抱ばかりにして、末へ細く、六七間も有ぬよし。遠望定かならねど、實に聞しに増さ
る瑞石とやいはむ。是や川西の屋敷村の持山、頓て兩三日の内には近く臨まんと打過ぬ。
後日を楽しみに先を進めた。
都て中津の川東は、村と村との境と云ども、大樹蒼茫として日の光りを禁じ、岩石疊々と
して行路し偶先に記せし如く、村家近ければ、大樹原切り廣げ、小木は燒拂畑となす故、
日光朗也。
記述のうらに牧之のがんばりや踏ん張りがほの見える。
そして、ようやく。
既今宵の泊。信濃國小赤沢村に黄昏の頃やゝ着ぬ。
たそがれのころ小赤沢に着いた。

此所、山の尾崎の斜なる所を像て、扶疎に二十八軒の家遠近に見へ、山颪肌に入み渡り、
今夜の夜具を一向案じ煩ひ、いかにも大なる家を見立て宿乞はんと桶屋が云。
小赤沢は秋山郷で最大の村。
此村に近頃幅祐の者に市右衛門と云ありて、近年家も建直し、(略) 是や屈竟の宿なりと、桶屋先へ進んで戸口へ入るに、能う來んなったと云ふに、今宵一夜の宿の無心と頼むに、此處は米がない、粟飯に茸汁でもよいならと云ふに、米も、味噌も、野菜も持參せり、宿かして呉ればよいと、草鞋解き(略)
桶屋の見立てで、夜具があると思われる福原市右衛門という人の家に泊めてもらうことになった。
塗壁の茅葺きの新宅だった。
わたしも秋山郷で旅の一夜にしたところだ。
いまは「苗場荘」という。



牧之が泊った部屋の天井。黒光りのする梁や柱に年輪を感じますね。




熊の毛皮や熊の胃は高価で売買。肉は秋山郷のスタミナ源だったそうです。熊刺し、熊なべ。『秋山記行』では秋山の食が比較的よく描かれていますね。



出された汁の中、秋山独特の粉豆腐に閉口する牧之でした。
夕べ以降は次回に譲ります。
しばらくお待ちください!
続く 次回は小赤沢の一夜。夜長談義。上の原~和山までをご案内します。
しばらくお待ちください。