「ウォーキング」と「散歩」と「町歩き」ごちゃ混ぜにして、西片町・按針町・浦賀の歴史トライアングル!
*トライアングル (triangle) ここでは△形の繋がりのこと。
バラバラのものや、マチマチだったものが、ひと繋がりやトライアングルになることってよくあることですが、こんかい偶然、たまたま、こうなったので、その成り立ちの筋を具体的に追ってみました。
秋の日の2時間ばかり。
文京区の西片町。その古い町域をぐるっと歩いてみました。幕末に老中職を務めた備後福山藩・阿部家が宅地分譲したお屋敷町!
いうなれば1町が丸ごと大名屋敷だったところだ。
慶長15年(1610)、武蔵鳩谷領主だった阿部正次(家康四天王の一人、譜代大名)が二代将軍・秀忠から拝領した土地であった。
本郷台地の一角でそのほとんどは備後福山藩・阿部家の中屋敷であった。
明治5年(1872)に尾根道の中山道(本郷通り)を挟んで両側が町になり、その際、街道の東側が東片町、西側が西片町と名づけられた。
谷下は庶民の居住地で、樋口一葉が明治27年(18945月に転居してきて、「たけくらべ」をはじめとする代表作を執筆し、亡くなるまで居住(旧丸山福山町4番地)したところとして知られている。
町の成立は新宿区荒木町、矢来町などと同じだが、ここの開発はお殿様自らが地主(オーナー)だったことだ。
阿部家は明治から昭和初期にかけ自らが借地借家業(不動産業)に乗り出し、高級住宅地として屋敷地を斡旋した。学者や文人が多く移り住んだことから俗に「学者町」とも言われました。
明治維新後、阿部家は昌平橋門内にあった上屋敷を政府へ返納し、中屋敷であったこの地に本邸を構えました。
どの土地もいまでいう分譲住宅地。分譲地の走りといえるでしょう。
町域は戦災に遭わなかったことから、古い洋風建築や武家屋敷の建物が残っていて、それが西片町の貴重な歴史遺産になっています。
鼎軒・柳村居住跡碑・鼎軒と柳村 二人の人物、田口卯吉と上田敏の号。
経済学者・文明評論家・政治家・実業家として著名な田口卯吉博士の旧居。詩人・小説家・翻訳家で東大教授として知られる上田敏が若き頃、第一高等中学校入学と同時にこの家に寄寓したと伝わる。
かつて阿部家が邸宅を構えていたところ。大椎がシンボルだったという。
*誠之舎 明治23年(1890)、旧福山藩主阿部家の育英事業として設立、旧福山藩から上京勉学する男子学生の寄宿寮おなっていた。作家・井伏鱒二もここで勉学に励んだといいます。
この備後福山藩・阿部家は、幕末の動乱に老中首座として活躍した阿部正弘(あべまさひろ)を輩出しており、老中になる前に暮らしていた屋敷がここであった。
幕末・動乱期、老中首座として鎖国時代に幕を引いた若き阿部正弘.若侍ヒーロー!日米和親条」を締結!ここに住めり。
阿部正弘 幕末の阿部家第11代当主(福山藩・第7代藩主)
27歳にして老中首座を勤めた。
ちょうどその頃、日本は欧米列強の脅威にさらされていた。
通商を求める外国船が次々に来航し、イギリスによる植民地支配の圧力が逼迫していた。
そのため、正弘は外交と国防に力をそそいだ。
そんな中、ついにペリーが開国と通商を求め浦賀に来航した。
「開国」か「攘夷」か、対応に苦慮した正弘は、「開国はするが通商は拒否する」という結論を下し、ペリーとの間で「日米和親条」を締結した。嘉永7年(1854)のことだった。
激動の国内外の政治に獅子奮迅の改革を成し遂げ、鎖国時代に幕を引いたことで歴史に大きく名を残した正弘であったが、安政4年(1857)39歳の若さで亡くなりました。
そんな阿部家ゆかりの西片町を歩いた折も折、期を同じくして昔日の浦賀道(うらがどう)を歩きました(毎日新聞旅行社・風来人)。
幕末にスポットライトを浴びた浦賀奉行所。そこへ向かう街道が「浦賀道」と言われた!東と西があるが、東道の街道ウオーキング。
浦賀道 浦賀街道とも呼ばれ、三浦半島各地へ向かうための交通路として、なかでも浦賀に奉行所がおかれ、江戸と浦賀間の往来が盛んになったことから、俄かに重要道に格上げされました。
保土ヶ谷、戸塚から三浦半島の浦賀に至る東西2本の道が開かれていました。
- 東浦賀道 東海道「保土ヶ谷宿」から六浦を過ぎて相模国に入り、田浦、十三峠、逸見、汐入、大津を通って、矢の津坂から浦賀に至る道。江戸からは17里半(約69km)。
- 西浦賀道 東海道の「戸塚宿」から鎌倉道に入り、鎌倉を経て葉山、平作、衣笠、大津で東の浦賀道と合流する道。江戸から浦賀まで20里(約79km)。
十三峠はずう~と海が見晴らせる尾根の道
東浦賀道のうち「十三峠」のコースはコチラで⇒浦賀道十三峠
さて、こちらは、秋の日のひととき。NHK文化センターの生徒と日本橋室町を散歩しました、その折の歴史の一コマが以下。
日本橋三越前の横町通り。ウイリアム・アダムス(三浦按針)の住んだ「按針通り」の小路を、青い目のサムライを思いながら散歩しました!
三浦按針屋敷跡碑
このあたりに三浦按針が住んでいたということで住居跡の碑があります。
三浦按針 オランダ船リーフデ号の航海長だったウィリアム・アダムスは、慶長5年3月16日(1600年4月29日)、豊後臼杵の黒島(大分県臼杵市)に漂着。
捕らえられ徳川家康に接見の後、釈放され江戸に招かれ、幕府の外交顧問として仕えることになりました。
家康の厚い信任を得て、三浦郡逸見村に250石の領地を与えられ、名も三 浦を名乗りました。
青い目のサムライの誕生です。
妻は江戸日本橋大伝馬町の由緒ある名主・馬込勘解由の娘。
そして、これから、ぴょ~んと時空を飛んで、浦賀道の十三峠の道中です。
按針は家康から三浦郡逸見村に250石の領地を賜りました。いまの横須賀市西逸見町です。そこに三浦按針の供養塔である按針塚(国史跡)があります!
アダムズの領地であった逸見にある塚山公園には、按針の遺言によってこの地に建てられたと伝えられる2基の供養塔が残されています。
元和6年(1620)、按針は平戸で病死し、55年の生涯を閉じました。
浦賀・ペリー黒船来航による開国の鼓動。「浦賀道」終点・浦賀奉行所跡を訪ねました!さりながら夢幻で忍び難し!
浦賀奉行所 もともとは伊豆の下田に開かれていたのですが、享保5年(1720年)12月(旧暦)に浦賀に移されたといいます。
船改めをはじめ、海難救助や地方役所としての仕事などを担うのが役職でしたが、幕末になり異国船が
来航すると、海防の指揮や監督、外交交渉の窓口として、浦賀奉行所の重要性が増大し、地位も長崎奉行の上席に昇格しました。
ペリー来航に際し、単身で艦船サスケハナに乗り込み、はじめて外国人と接見したのが浦賀奉行所与力・中島 三郎助でした。
中島 三郎助(なかじま さぶろうすけ)
嘉永6年6月(1853年7月)、アメリカ合衆国のマシュー・ペリー艦隊が浦賀沖に来航(黒船来航)した際に、副奉行と称し旗艦「サスケハナ」に乗船。その後、浦賀奉行・戸田氏栄に代わり、アメリカ側使者の応対を務めた。
老中・阿部正弘に軍艦建造の必要性と、蒸気船及び艦隊の設置を主張。日本初の洋式軍艦「鳳凰丸」製造掛の中心として活躍しました。
このことが、後に小栗上野介忠順(おぐり こうずけのすけただまさ)が横須賀製鉄所(横須賀造船所)を作って日本近代化の礎を築く源になったのでした。
惜しいかな、箱館戦争のおり榎本武揚らと行動を共にし、函館中島町で父子三人で戦死しました(中島町は中島の名によるもの)。三人で浦賀の東林寺に葬られている。
辞世の句
- ほととぎす われも血を吐く 思い哉
- われもまた 死士と呼ばれん 白牡丹 (合掌)
いつか来たときは大きな建物があったのですが、取り払われていました。
近い将来、ここに浦賀奉行跡を顕彰する何某ができる予定らしいです。
まとめ
それぞれ同じ季節に前後して歩いたものですが、偶然にも歴史的なトライアングルとなりました。
で、これは、こういうこともあるという、ほんの一例を示したものです。
逆転してみる。
時間的なことやスタイルなどは別とし、あらかじめトライアングルを組んでおいて、様々なフィールドを歩くのもいいのじゃないでしょうか。
あなたにもきっとあります、歩いてトライアングル!
言ってみれば、三角関係ですね(笑)