ポタリング紀行/日本一の大河367㎞をゆく~チャリ膝栗毛~信濃川・千曲川~源流遡行(3)-1
今回の歩みは、
越後岩沢駅~下条~中条~四日町~越後十日町
上越新幹線で上野を発ち長岡に到着。
長岡からもどる形で上越線の各駅停車に乗り越後川口駅へ。
信濃川と魚野川の二川が合流そるところまで行ってみたい。そのためこんな変則なものになった。
というものの、実際は合流近くまで迫れず、それらしい風景も撮れなかった次第。
信濃川と魚野川の合流点
魚野川 信濃川の最大支流。新潟県魚沼地方を流れる一級河川であり、信濃川の1次支川。河川延長は66.718 km(キロメートル)、流域面積は1,519 km2(平方キロメートル)である[1]。
幹川にあたる主たる流れを本川と呼び、これに直接流れ込む支川を一次支川、一次支川に注ぐものを二次支川などとして分類する 。 これとは別に、ストラー河川次数は、支川を1次流、2次流、3次流、さらに高
新潟県と群馬県の県境の谷川岳西面に源を発し、新潟県の魚沼地方を南から北へ向かって貫流し、長岡市川口付近で信濃川と合流する。
越後川口 川が出合うところ>「信濃川」と清流の「魚野川」が合流する地点。
古くから舟運による物資運搬の拠点として、また三国街道の宿場として、交通の要塞の役割から栄えてきた。「越後川口やな場」。
西川口 魚野川左岸と信濃川左岸に挟まれた農地及び住宅地が多くを占める地域で全国最大最古の簗場である「川口やな」、西倉地区の西瓜、荒屋地区の先土器時代の荒屋遺跡、川口小学校、川口中学校の教育施設も立地する。
東川口 魚野川右岸の河岸段丘にあたり、JR越後川口駅や公共施設の集中する中心市街地である。地域内には『延喜式神名帳』に記されている「川合神社」があり、江戸時代には三国街道の参勤交代の宿場として栄えた。
魚野川の土手が途切れる突端まで進んだが行きどまり。その先は草ぼうぼうの河川敷がひろがるだけ。
接近すれば合流が望めると思ったのがおお間違いだった。
左から魚野川が信濃川に流れ込んでゆく。ここまではいい。そのさきが見えない。
遠くに見える橋は、手前が信濃川に架かる西倉橋、そのさきに高速道の越後川口橋。
川口駅側からの合流風景。魚野川はゆったり流れ、右手奥で信濃川に合流しているのだが、ここからは信濃川がアングルに入らないので、ただ、だだっ広いだけの景色しか撮影できなかった。
ここぞというビュースポットがどこかにあるにちがいない。あらためて探してみたい。
土手はしっかり整備され歩きやすい。
駅までの戻りに川合神社に寄った。名もズバリで信濃川と魚野川が合流するのに因んだ社で、延喜式内社だから、往古からここで二つの川が合わさっていたことを証人する社だ。
川合神社
『延喜式神名帳』に魚沼郡五座の一つとして記されている「川合神社」の論社の一つ
祭神、天水速女命(ミヅハノメ)、武甕槌命(タケミカヅチ)。水の神ということから、舟人・川猟たちに、性の神ということから、婦人に、武道の神も祀られていることから武運を上げたい者が参拝していた。
又、信濃川と魚野川の合流点、三国街道の宿場町ということから多くの人が参拝し、休憩の場としたりしていたという。
延喜式内社の碑 古くから川合神社を中心に栄えていたのだろう。
延喜式内社 国がお祀りすべき重要な神社として、延長5年(927)にまとめられた「延喜式」の巻九・十に名前が記載されている2861社の神社のこと。それを「延喜式神名帳」(えんぎしきじんみょうちょう)という。
延長前の元号、延喜の時代に編纂が始められたので「延喜式」と命名されました。
弥彦神社(新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦)もそうですね。
越後川口駅 長岡市東川口にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅。上越線と飯山線が乗り入れており、このうち上越線を所属線としている。飯山線の終点駅。
飯山線 長野県長野市の豊野駅から新潟県長岡市の越後川口駅に至る、東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線である。長野県内では千曲川に沿い、新潟県内に入ると千曲川から名を変えた信濃川に沿って走る。
信濃川に沿う越後のローカル線・越後川口~豊野 飯山線の旅
国有鉄道十日町線 昭和2年(1927)、越後川口駅 ~ 越後岩沢駅間が開業し内ケ巻駅・越後岩沢駅が新設された。次いで11月に越後岩沢駅 ~十日町駅間が延伸開業、下条・魚沼中条・十日町の各駅が新設された。
飯山線(私鉄飯山鉄道) 終戦の前年、昭和19年(1944)6月1日、飯山鉄道が買収され国有化。十日町線を編入し豊野駅 ~ 越後川口駅間 (83.8km) が飯山線と改称された。。
*地元の有志により発起された飯山鉄道の建設資金の不足は中津川の水力発電所を計画していた信越電力が建設資材の輸送手段として飯山鉄道を利用するために出資することになり、株式の大半を保有。電源開発のため延長することになり、豊野駅 ~ 飯山駅間が開通してからは発電所建設資材運搬のため下流の新潟県境へ延伸していくことになった。
内ヶ巻 信濃川が大きく内に巻いていうところ。内ヶ巻~越後岩沢間2.8キロがトンネル。
越後岩沢駅 東日本旅客鉄道(JR東日本)飯山線の駅。どこの駅舎も一律の建物になってしまったなかで駅らしい趣が残されている。外壁は改装されているが木造駅舎の素朴さを備えている。開業当時からのものというから、納得できる。無人駅(十日町駅管理)。
駅舎前の駐輪場には、預けたままの自転車が一台目に入った。「ああ」とも、「やあ」ともいえない安堵感が口からもれた。
タイヤの空気も異常なし。
点検を済ませ一路、十日町を目指した。
岩沢 昭和30年(1955)に新潟県小千谷市へ編入。市の南部に位置し、十日町市と隣接する。信濃川沿いの河岸段丘地帯から山間部へ広がり、岩と沢が多いことが地名に反映しているんでしょう。
右岸を走る国道117号線をゆくことにした。
国道117号 長野県長野市から新潟県小千谷市に至る一般国道。長野県北信地方と新潟県を結ぶ主要ルートの一つであり、大部分を千曲川・信濃川、JR東日本飯山線と並行しています。江戸時代の「善光寺街道」であり「妻有道」ですね。これからは、この道を大きくなぞって行くことになります。
1.7キロほどでトンネル。雪国新潟ならではのスノーシェード。市之口雪覆道。
スノーシェードをぬけるたびに信濃川が眼下にひらけます。
スノーシェードは段丘の崖ぎりぎりのところに設けられている。
国道はトンネルを過ぎると、100メートル弱の隔たりを維持しながら飯山線とほぼ平行して走り、四日町新田のさきで国道と交差する。その間8,5キロほど。
十日町市・小千谷市境界
十日町市域に入って最初の町が「下条」(げじょう)。
大地の芸術祭祭(越後妻有アートトリエンナーレ)英称:The Echigo-Tsumari Art Triennial) 新潟県十日町市および津南町で開催される世界最大規模の国際芸術祭。
「人間は自然に内包される」を理念に、新潟県十日町地域の約762平方キロメートルの広大な土地を美術館に見立て、アーティストと地域住民とが協働し地域に根ざした作品を制作、継続的な地域展望を拓く活動を目的とする芸術祭である。大地の芸術祭は「交流人口の増加」「地域の情報発信」「地域の活性化」を主要目的としたアートプロジェクトである。(Wikipedia)
平成12年(2000)第1回が開催され、以後、3年に1回開催されている。
*越後妻有 古くからこの地域が「妻有郷」と呼ばれたことに由来する。
下条 古代条里制の名残をもつ地名ともいわれ、「シモジョウ」を音読みして「ゲジョウ」となったものとか。
十日町盆地 盆地の中心は十日町市。まちの東と西に山々が迫り、妻有盆地(つまりぼんち)ともいわれる。 盆地の中央部を南北に信濃川が流れる山間の盆地で、十日町市中部から中魚沼郡津南 町に広がり、信濃川の上流域では河岸段丘が発達している。
頭の中からすっぽり抜け落ちていた。うっかり通り過ぎるところだったが、偶然というか、不意に『新保広大寺」(しんぽこうだいじ)への標識が目にとまった。絶対寄りたかったところなので、何か導かれているような嬉しい思いがした。
国道から山側へ300メートルほど入ると、下条下組という集落がある。
飯山線の線路を横切る。
緑陰の続く長い参道。
新保広大寺 下組新保にある曹洞宗の古刹。鶴齢山広大寺。本尊:聖観世音菩薩。
室町時代の長禄元年(1457)の開基。
名の如く大寺である。もともとは鶴ヶ嶺にあり広良寺と称していたが、文明17年(1485)に現在地に境内を移し広大寺と寺号を改称したと伝えられている。
本堂は木造平屋建て、寄棟、銅板葺。平入。正面入口左右に花頭窓。
魚沼三十三観音霊場第28番札所。妻有百三十三番霊場第117番・第118番札所。
ここが新潟県の民謡、「新保広大寺節」発祥の地とされている。踊り歌だ。
もとは越後瞽女の門付け歌で、詞はこの禅寺・広大寺の和尚の行状を歌ったものという。
瞽女などによって広められ、各地の民謡に多大な影響を及ぼした。
住職・廓文和尚が門前の豆腐屋の娘・お市と馴れ初め、その恋のうわさが唄になって流行したという説がもとになっている。
そのきっかけは、寛永6年(1629)に起こった信濃川の洪水。
地形が変わったことから中洲の土地がゆがみ、寺島新田と上ノ島新田の農民によって耕作権争いが勃発した。
上ノ島新田側には大地主・最上屋がつき、寺島新田側にはその中洲が広大寺の寺領であったことから、14代の和尚が加勢した。
そこで、最上屋は、和尚を潰す作戦に出た。
和尚の乱行を唄にして世間に歌わせた。あることないことを歌詞にした悪口ばかりの唄だが、これが当たった。甚句を得意とした瞽女達の手によって歌い広められたのだ。
いうなれば、はじめは狭い範囲のご当地ソングみたいなものだった。
くだらない戯れ歌だった。
こうして越後ごぜ達によって唄い広められた「新保広大寺節」は、今様流行歌となり、江戸時代の五大流行唄の筆頭ともいわれるまでになったのだ。
つまり。民謡のルーツがこの歌にあるのだと識者は説明している。
北上した越後ごぜは、山形、秋田、青森、北海道と唄い歩き、「津軽じょんがら節」、「口説節」、「道南口説」、「北海道鱈つり唄」などに流れ継がれていった。
関東方面を歩いた越後ごぜによって、上州風土に合う「木崎音頭」、「八木節」へと変じた。
南下した越後ごぜは、信州路から甲州路や中仙道へと唄い歩き、「古代神」、「麦わら節」に変化や影響を与えた。
更に西へ向かっては、中国地方の民謡「古代神」の元唄となり、全国各地の「口説」の源流となっていった。
「新保広大寺節」は昭和59年(1984)に十日町市指定無形民俗文化財に指定された。
広大寺の周りはのどかな田園地帯。
国道117号は飯山線と平行するまっすぐの道。
下条駅 十日町市下条にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)飯山線の駅。
下条駅を過ぎたところの、下条栄町の信号から国道252号(柏崎会津若松線)が分岐する。
信濃川に栄橋が架かるので、500メートルほどあるがチャリを飛ばし撮影に行くことにした。
栄橋 国道252号。昭和39年(1964)開通。L=403.0m
橋のない時代にはやや下流に中条と川西上野を結ぶ「木落し渡し」というのがあったという。文明18年(1486)、道興准后(どうこうじゅごうが北陸を旅した際にをこの渡しを通過した記載があるという。道興准さんは、こんな片田舎までおとずれてたんですね。
*道興准后 室町時代の僧侶で聖護院門跡。関白近衛房嗣の子。文明18年から19年(1486~87年)にかけ東国を廻国。道興は後に東国廻国を紀行文『廻国雑記』として著している。多くの地名がみられ往時の風土を知る一級資料とされている。
魚沼中条駅 東日本旅客鉄道(JR東日本)飯山線の駅。開業当時、新潟県内に同名の駅があったために、群名の「魚沼」を冠し区別したという。
魚沼 平安中期の『和名抄』に、「魚沼郡」が初見され、のちに北魚沼、中魚沼、南魚沼に分かれとされる。奈良時代、開拓小屋の多い原野を「庵野」(イホノ・イオノ)と呼び、「イヲヌ」と転じ、そこに「魚沼」の字が当てられという。ほかに「魚」(イオ)説と沼湖に由来する地名説もある。
中条 下条と同じく条里制の名残ともいわれる。
条里制(じょうりせい) 古代から中世後期にかけて行われた土地区画(管理)制度。1町(約109m)間隔で直角に交わる平行線(方格線)により正方形に区分するのが特徴とされる。
新潟県立歴史博物館の「魚沼地方」の古代遺跡の分布図というのをみると、縄文期では十日町・中里、次いで津南が突出。ほとんどが信濃川流域。それも国道117号線から魚沼丘陵側に分布している。
統計では、信濃川流域(十日町市)には旧石器時代から古墳時代までの遺跡が115ヶ所。比して魚沼盆地(湯沢~小出)側では同時代のものはわずか 8ヶ所。同じ魚沼でこの落差。
古代から信濃川の河岸段丘上が、いかに生活しゃすかったかが明確である。こした流れの中に火焔型土器の時代が生まれたのであろう。
高校時代、歴研クラブの民俗班に属していた。部室の戸棚には斧や矢じり、土器などの破片にまじり美的な模様を細工した欠片があった。そんなものに素朴に魅入られたのだった。
のちに火焔型土器が発掘されようなど夢々思えなかったあのころ。
わが故郷の大地は古くから豊だったのだということがしのばれる。
笹山遺跡 信濃川右岸の河岸段丘上にある。国宝「火焔型土器」群が出土。縄文時代と中世の遺構が重層する複合遺跡。出土深鉢形土器 などは十日町市博物館に保管されている。
大井田城址 一帯は越後の新田一族である大井田氏の本拠地。中条下町の東側にそびえる城山の山頂にあった大井田城址(県史跡)がそれと推定されています。
大井田城主の大井田経隆は、元弘3年(1333)、新田義貞が鎌倉幕府を倒すために挙兵したとき、真っ先にここから鎌倉へ駆けつけた。
往時はどこをどう抜けて鎌倉本道にアクセスしたのか。わかればルートをたどってみたいものだ。
大井田一族のふるさと。
中条は十日町市の北寄りにあり、信濃川右岸の河岸段丘に広がる。
中条の名はよく口馴染んでいた。
「中条の棟梁」と呼んでいた大工の棟梁!
我が家をたてた大工の棟梁。「中条の棟梁」。
父も母も皆がそう呼んでいた。
下がり眉毛をした昔堅気の優しい棟梁だった。
手がすくと木っ端でよく積み木ををこしらえてくれた。
腕のいい大工で父はべた褒めだった。
中条の名はその時分からよく聞き及んでいた。
十日町のさきの中条というところから出向いてくる棟梁。我が家では中条の棟梁で通っていた。
経済的なこともあって、巡り廊下の一部が何年か未完のままだったのだが、のちに棟梁の手できれいに造作された。「最後のご奉公」だと棟梁が言っていたと母が教えてくれた。
棟梁の手も体も老いてはいたが、「昔取った杵柄 は衰えていないね」と母はいった。
後年、母のお悔やみに見えたのが棟梁と相まみえた最後だった。ますます好々爺にみえた。
尾台榕堂の誕生地・幕末に町医者として江戸中にその名を知られた漢方の名医!ここに生まれる。
こんな偉大な名医を輩した土地とは驚き!灯台下暗し!
尾台榕堂直筆「座右の銘」
「余有るを待って後人を済わば必ず人を済うの日なし。暇有るを待って後書を読まば必ず書を読むの時
なし」
練馬在住でたまにお世話になる病院。これも奇遇!
*画像 練馬総合病院・江戸の医案を読む 第1回 尾台榕堂『方伎雑誌』から 08_64toyo_01.pdf (nerima-hosp.or.jp)
吉益東洞の類衆方を研究し『類衆方広義』(るいじゅうほうこうぎ)を著した。著書は他にもたくさんありますが、特に「類聚方広義」は名著中の名著で、漢方を学ぶ人は誰もがこの本を通らねばならないといわれます。
尾台榕堂を知るきっかけになったのが八重洲に建つ記念碑だった。
それまでは全く無知だった。
浅田宗伯のことは「浅田飴」を通じて知っていたが、尾台榕堂については100%無知だった。
さらには、同郷人だと知り、その無知さかげんに、ただ唖然、呆然。灯台下暗しだったことに、愕然とし、屈辱のようなものを感じたのだった。
*「浅田飴」の創業者・堀内伊三郎は浅田家の書生で、水飴の処方を宗伯から譲り受け、創業したのが浅田飴といわれる。
貧者を救った漢方の市井医–尾台榕堂、下町八重洲・槇町(まきちょう)の施療院がここにあった!
材木関係の職人が集住した槇町に尾台榕堂は漢方医院を開業した。その場所がここ。一帯は下町を代表する職人街で、様々な職人たちが住んでいた。
傑出した名医でありながら、人間愛にあふれ、心に仁を持って治療にあたり貧しい人であっても親切の限りをつくした仁医であった。
尾台榕堂(1799~1870)は幕末に活躍した漢方の名医。越後魚沼郡中条村(現在、新潟県十日町市中条)の医師小杉家に出生。名は元逸、字は士超、通称は良作、号は榕堂また敲雲。十六歳で江戸に出、尾台浅岳に医学を、亀田綾瀬に儒学を学ぶ。三十六歳で師浅岳の家を継いで尾台姓を称し、六十五歳のとき将軍徳川家茂に単独拝謁。この地(北槙町)に居住して医療活動を行い、当代屈指の名医として世に謳われた。著書は類聚方広義・方伎雑誌ほか多数あり、現代医療の一班を担う日本漢方医学の基礎を築いた。 撰文 小曽戸 洋 建立 平成二十三年十月二十九日
(社)日本東洋医学会、(財)日本漢方医学研究所、東亜医学協会、(社)日本医史学会、温知会、東京十日町会、十日町市
職人町の賑わいは消えてもなお八重洲は賑わっている。
尾台榕堂と浅田宗伯は「江戸の二大名医」として称えられたのだが、そのふたりが同じ槇町に住んでいたことがある。尾台榕堂が開業していたのが当時の北槇町(現在の京橋1丁目付近)。浅田宗伯は上槇町(八重洲1丁目)に住んでいた。
父の患い(帯状疱疹)と漢方療法を広めた尾台榕堂のふるさと!
いつだったか、父が不思議な病を患った。
いまでいう「帯状疱疹」(たいじょうほうしん)だった。
病名も広く浸透しておらず、そのころはまだ奇妙な病ともみなされていたようだ。
眠れないほどの痛みが神経をさかなでする。
体のいたるところに発症するが、父のは背中から胸。最も一般的な場所だった。
目や脳に発症するとたいへんらしい。
父が悲鳴をこぼすと、母は「意気地がない人」だと嘆いた。
治癒がままならないので、介するものがいて民間療法にすがることになった。
人によっては怪しげなイカさまだと揶揄する人もいた。
父が悲鳴をこぼすので、可哀そうで、母は藁にも縋る(わらにもすがる)思いで、ゆくことにした。
施術の人は中条にいた。
今思うと、そのときの仲介者は、「中条の棟梁」だったのではなかったか。
そして実際は尾台榕堂の培った漢方に基ずくものでなかったか。
ともかく、こうして父の病は治ったのだった。
いま中条という土地を踏んでぼんやり浮かぶのは、懐かしさに包まれたそんな思いである。
*帯状疱疹 水痘・帯状疱疹ウイルスによって引き起こされるウイルス感染症の一種。帯状の疱疹が帯のような形で現れることから帯状疱疹という。
はじめて知る珍しい名の神社があった。
矢放神社(やはなちじんじや) 御祭神は高皇産霊神(タカミムスビ)。由緒ありげで、近郷にもみられるが同じ社であろか。祭神が異なるものもある。
歩いてるとき、寝てるとき、足がつることってありますよね。緊急の治癒に漢方のコレ!とまります。
石造物も多く、民間信仰の深さがうかがわれる。
上宮太子堂 国道117号線沿いにみえる。「太子堂」のバス停があったので拝借、休憩。もちろん本尊・聖徳太子であろう。由緒ありげだが、由来はわからない。氏子が管理しているのだろうに。
道に太子堂線というのがあるのは、このお堂にちなむものだろう。
やはり国道沿いに社。こちらは辨天社。
辨財社 整備され、池も配し堂々たるものだが由緒なし。祭神が辨天さまだということはわかるが、やはり創建の由来とかあるなら記してほしいものだ。
上大井田川を過ぎてからは、四日町を抜け信濃川沿いをゆくことにした。
途中に大寺がいくつかあるので、それらを目にしたい。
まず見えたのが真浄禅院。
真浄禅院 曹洞宗(禅宗)の寺院。 天正年間(1573〜1592)初代んの明山義光禅師によって開山されました。庭は江戸時代後期の亀田鵬齋(かめだ ぼうさい)が手がけたとされている。江戸の文人亀田鵬齋の作庭とは珍しい。
真浄院の亀田鵬齋の築庭はこちらで。
*亀田鵬齋 文化・文政期一級の書家、儒学者、文人。佐渡を含め3年間ほど越後で過ごし、各地を巡り、旧家や文人の招きに応じ多くの作品を残し、良寛をはじめとした越後文人に大きな影響を与えた。越後商人にスポンサーが多かったという。真浄禅院の築庭はこの時のものであろう。
近くにもがひとつ。
祇園社 御祭神は須佐之男命ほか建御名方命などが合祀。
創建は室町時代後期の明応元年(1492)。江戸時代までは牛頭天王社と呼ばれていた。
さすが神郡寺の山門はスケールが大きい。
神宮寺 平安時代に開創された曹洞宗の古刹。
大同2年(807)、坂上田村麻呂の開基。延宝8年(1680)天台宗から曹洞宗に改宗。
こうしたことからんも奈良時代にはすでに中央との繋がりがあったことがうかがえる。
山門をくぐると正面に観音堂(本堂)。
山門は宝暦11年(1761)から明和6年(1769にかけ)、
大草鞋 奉納されたもの。大草鞋は威嚇、魔除け。
観音堂 安永2年(1773)から天明2年(1782)に及ぶ歳月をかけて建造された。入母屋(撞木造)。豪雪地帯であることを反映し茅葺屋根の反りが大きい。積雪に耐える建築構造になっている。
広い境内は針葉樹に囲まれている。庭が苔むしており、伽藍とともに静謐な佇まい。
神宮寺境内に隣接して公園が広がる。その名も「大井田の郷公園」。大井田城址があることに因んだ記念公園のようなものだろう。一帯は広く大井田地区と呼ばれている。
大井田の郷公園
十日町市の神宮寺境内に隣接した公園。大小の池。心癒される安らぎ空間として子どもからお年寄りまで多くの人々に親しまれています。菖蒲や蓮の花、桜スポットとして人気となっています。
田川 西本町で田川を渡る。南魚沼郡境にある清水峠に源を発する川。市内に田川町がある。
妻有大橋 十日町市~川西町。県道十日町千手(340号)線。平成4年(1992)4月完成。L=476.3メートル。親柱に雪の結晶がデザインされている。
かつては川筋が一定しない歴史が長く続いたことが読みとれる。
十日町橋 国道253号。十日町~川西千手。昭和42年(1967)3月に鋼吊橋部を架け替え完了。L=476.3メートル。十日町市に架かる信濃川の橋梁としては最も古く、大正13年(1924)10月5日開通。
中央部は鋼吊橋、側端部は木桁橋だった。たびたびの改修を経て現在に至っている。十日町小唄に謳われる橋である。
それまでは室町時代から続く「孫左衛門渡し」が渡河を担っていたという。
近くに着物柄に「雪ときものの とうかまち」とコピーをあしらったモニュメントがあった。
国道253号を市街地にむかい、途中から十日町川西線に進んだ。長い高田町の通りだ。
高校時代まで過ごした町であるが、このあたりをうろついたことがないので、どれほど様変わりしているのか、さっぱり見当がつかない。見る限りはどこも新開地の風景だ。
いまは市域の商店街の町並みに開発されている。
ロードサイドはほとんど畑か田圃だった。
飯山線を過ぎ、左ん線路沿いをゆく。
ここまでくると、どことなく地理感が戻ってくる。
時折通った通学路だ。駅に出る近道。
駅前はすっかり変わって、記憶がバラバラ。
そのころはなかった碑だが、「十日町小唄の碑」が立つ。
若いときとちがい、あまりふるさと帰りしないから、近年のようすは、ほとんどわからない。
十日町小唄の碑
越後名物数々あれど 明石ちぢみに雪の肌 着たら離せぬ味のよさ
テモサッテモ ソウジャナイカ テモソウジャナイカ(以後、囃子略)
雪が消えれば越後の春は 梅も桜もみな開く わしが心の花も咲く
逢いはせなんだか十日町橋で 長さ六町の ゆき戻り 恋か涼みか夜を明かす
人が見たらば横丁へよけて 雪のトンネル 隠れ場所 恋の抜け道廻り道
昭和4年(1929)。十日町織物の象徴である明石ちぢみのコマーシャルソングとして作られたもの。作詞・永井白湄(ながいはくび)、作曲を中山晋平が手がけた。
同年7月に芸者歌手・藤本二三吉の歌唱でビクターから発売され、女優の水谷八重子の振り付けで踊りが付き、一躍脚光を浴びた。
更にデザインは、美人画で一世を風びしていた竹久夢二。夢二は、人気の美人画に「ちぢまぬ明石」という明快なキャッチコピーを添え、明石ちぢみを流行の先端へと押し上げた。
最初はビクターから新民謡「サッテモ節」として発売、全国的に広まりました。
戦後新たに編曲し、三十五年十一月週間サンケイの「全国民謡・新民謡ベストテン」で新民謡部門の第一位に選ばれて再び脚光を浴びるようになりました。
い、踊りは雪のロマンを哀愁をこめて表現した十日町の代表作で、新潟県の民謡として佐渡おけさと共に全国で愛唱されています。
十日町
明治12年(1879年)4月9日 – 郡区町村編制法で魚沼郡のうち77村に行政区画としての中魚沼郡が発足。郡役所が十日町村に設置された。
新潟県南部の長野県との県境、千曲川が信濃川と名前を変えて間もないところに位置します
東側には魚沼丘陵、西側には東頸城丘陵の山々が連る盆地。
中央部には信濃川が南北に流れ、十日町盆地とともに雄大な河岸段丘が形成されています
通学の行き帰りによく通った。
静謐な佇まいは昔とかわらない。
江戸時代後期の建物で、切妻、銅板葺き(元茅葺)。総欅、素木の四脚門。
智泉寺 瀧澤山智泉寺。曹洞宗。
魚沼郡水沢邑に築かれた城の城内に境内を構えていたと伝えられています。今回初めて知った。
城が落城し城主(いったいだれなんだろう)が没落すると庇護者を失い衰微した。
その後、寺運が隆盛し末寺3ヵ寺(圓通寺・慈眼寺・水月寺)を有するなど地域にある曹洞宗寺院の中で中心的役割を持っようになったという。
十日町随一の古刹である。
智泉寺に旅の無事を告げ、今夜の宿に向かった。
里帰りではないので、敢えて、市内のホテルを旅のj一夜の宿りとした。
ホテルニュー十日町。
昨日の小千谷のホテルで薦められたもの。
旅館だけだったがこうしたものが建つようになったかと隔世の感で旅の荷をおろした。
続く
次回までしばらくお待ちください。