ポタリング紀行/日本一の大河367㎞をゆく~チャリ膝栗毛~信濃川・千曲川~源流遡行(2)-2
今回の歩みは、
小千谷(おぢや)~山本山大橋~牛ケ島大橋~西倉橋~川井大橋~魚沼橋~越後岩沢駅
新潟県中越地方の町。越後平野の南端に広がる河岸段丘上の小千谷市
なかなかそうは読めない。「小千谷」はそうとう難読だ。
その小千谷市は「旭橋」を中にはさみ信濃川両岸に市街地が発達しています。
千谷郷(ちやごう)の中にある小千谷に由来する説や、沢の落ち合う所や低湿地という意味の「落ち」が転じ「おぢ」となったとか,諸説あるようです。
毎年9月に片貝地区で行われる浅原神社の例大祭(片貝まつり)の花火大会は、世界一の大きさを誇る四尺玉の花火が上がることで有名です。一度鑑賞してみたい。あと「牛の角突き」ね。長岡の山古志(旧山古志村)にもあるけど。
本町通りがほぼ東西に通り、東側が一丁目で、西側が二丁目。小千谷市の中心市街地で市内のメイン通り。本町通り沿いに本町商店街が開けている。小さな路地が多い
小千谷は三国街道(長岡藩、与板藩、村松藩が参勤交代で利用)と柏崎に通じる魚沼街道(鯖石街道)、与板城下に通じる与板道が交差する宿場町で、信濃川舟運の拠点にもなっていたことから、多くの物資が運びこまれ商業都市の賑わいをみせていた。
江戸時代初期に堀次郎将俊によって伝えられたという小千谷縮(ユネスコ無形文化遺産」)や小千谷紬などの主生産地で、今日も主産業となっている。
主要国道ふたつ。
国道117号 長野県長野市から新潟県小千谷市に至る一般国道。
国道18号 長野県北信地方と新潟県を結ぶ主要ルートの一つで、こちらは大部分を千曲川・信濃川、JR東日本飯山線と並行している。
小千谷市内、裏道、横道、表道、自転車でぶらりポタリング。市内風景と戊申戦争・歴史の面影を訪ねてみる!
裏町にあるホテルの道筋で風格のある社を見かけた。一帯は住吉町という。
正徳元年(1711)創立とある。「縮」産業の普及とともに商売の神として信仰が広がったという。
住吉町の名はこの社からとったもの。
住吉神社 小千谷市の本町通りの脇道に入ったところに鎮座している。
境内に新旧の石碑がまとまって立つ。
裏町 旧市街。上町の裏手にあって、のち住吉町に改名された。
集落の発展で祭礼も盛んになり、子供相撲に大人の相撲も加わり、江戸相撲の吉田家より土俵の免許を授けられたという。
花街 近くの船岡町は静かな住宅街。この地がかつて小千谷遊廓として華やいだ歴史があったことなど微塵もなく、完全に払拭されている。
お寺が多い街で、それにどこも大寺。中でも照専寺は傑出している。
照専寺 小千谷市寺町
浄土宗、日光山。本尊阿弥陀如来。天正2年(1574)小千谷村の鎮守・神社境内に草庵が開かれたのが起源で、開基の檀頭には小千谷屈指の名家が名を連ねた。豪商の多くが檀家になり、市内有数の檀家数を有している。
小千谷は徳川幕府直轄の天領だったが、享保9年(11724)に会津藩の預り地となり、小千谷陣屋がおかれました。
照専寺の隣が慈眼寺。
激烈を極めた戊申北越戦争・その発端となった小千谷談判・慈眼寺会談!
小千谷陣屋があることから戊辰戦争に巻き込まれた小千谷市には、今でも戊辰戦争ゆかりの史跡が数多く残されています。
その第一と言ったらここでしょう。慈眼寺 。
慈眼寺山門 明治25年(1892)に造営。入母屋、銅板葺。重厚な構えです。
左右に素朴な仁王像が安置されている。明治時代の楼門建築の遺構として、平成27年(2015)に国登録有形文化財に登録されています。
河井継之助が和平調停の実現を夢見てくぐった山門
船岡観世音 小千谷市西中にあったという。小千谷市西中には今でも観音堂という地名がのこっているそうだ。
本尊・聖観世音菩薩像はこの地を訪れた弘法大師空海が自ら彫り込んだ一刀三礼の作という。
空海(弘法大師)が旅の途中ここで庵を結び仏像を刻んだ。聖観音像が完成す。空海は村人に、「この観音様を拝みなさい。仏の教えを守れば、みんな極楽往生するだろう」と言い残して村を去っていったという。そんな空海伝説があるという。
戊申戦争小千谷会談~慈眼寺本堂~岩村・河井会見の処
長岡藩家老・河井継之助と新政府軍の岩村精一郎が慈眼寺本堂で会談。ここでの談判が決裂したことで激烈な北越戦争とむかう。悲劇的ともいえる歴史的な場所ですね。
慶応4年(1868)5月2日。
長岡藩家老・河井継之助は、新政府軍との衝突を避けるため、新政府軍軍監・岩村精一郎と和平交渉にのぞみました。
慈眼寺 山号は船岡山(ふなおかさん)。本尊は聖観世音菩薩。宗派は真言宗智山派。薩摩藩の宿舎とされていたため、同藩戦死者の弔いはここで行なわれました。
2008年11月号
慈眼寺の会談にのぞむ河井継之助にただ一人藩士として随行した越後長岡藩きっての剣客・二見虎三郎(軍目付)。
左肩に付けている長岡藩藩旗の「五間梯子」が印象的。
33歳のとき戊辰戦争が起こり各地を転戦。
慶応4年(1868)8月25日、会津若松城下七日町の戦いで負傷し、同年9月14日山形で没したという。
墓は長岡市内の栄涼寺にあり、河井継之助の墓の近くで眠っています。
会見相手の岩村は23歳という若き軍監。交渉は実ることなく30分足らずで決裂。ここで河井は腹を括りました。長岡藩を背負っての苦しい戦いの道を選びました。
新政府軍が小千谷陣屋に本陣を構えたとき、縮問屋など小千谷商人たちの判断により、即座に西軍(新政府軍)に協力したことで、市街戦がなく市街地は戦禍を免れました。
慈眼寺から徒歩8分ほどの船岡公園の一角には、船岡山西軍墓地があります。
司馬遼太郎が芳名帳に書き残したという「河井継之助の風姿を知らむがため慈眼寺に来る。山内の蝉声を聞きつつ」の一文は、境内の石碑に刻まれています。
小千谷織物~小千谷紬(おぢやつむぎ)・小千谷縮(おぢやちぢみ)を織り出す町
小千谷紬は「越後上布」と「小千谷縮」、2種類の麻織物をルーツに持つのだそうです。
越後は古くから織物が盛んに行われてきた地域でした。特に越後上布(えちごじょうふ)は、正倉院に1000年以上前の麻布が残っているほど歴史のある織物といわれます。江戸時代には越後上布の技法がさらに改良され、夏に適した小千谷縮が生まれました。
江戸時代中期になると小千谷縮の技法を取り入れ、絹糸で織られた小千谷紬が誕生。はじめは捨ててしまうような繭から糸を紡ぎ、自宅用として織られていたのだそうです。
簡単にいうと。
小千谷紬は繭から作られた絹織物
小千谷縮は苧麻(ちょま)から作られた麻織物
*苧麻 イラクサ科の植物。「からむし(苧)」の漢名。古くから植物繊維をとるために栽培されてきた。文献上の別名が多く、紵(お)、苧麻(ちょま)、青苧(あおそ)、山紵(やまお)、真麻(まお)、苧麻(まお)などがある。
小千谷縮が苧麻と呼ばれる植物を原料としているのに対し、小千谷紬は蚕が作った繭から糸を紡いで織られています。
小千谷縮の伝統的な技法と、1000年以上も続く越後上布の技術を取り入れて織られた紬が小千谷紬です。
小千谷は織物の産地であるとともに、塩沢紬など魚沼地方の織物が集められ江戸や京都へ移送される集散地として栄えました。
そんな小千谷織物に由来するお堂が極楽寺の境内に建てられています。
明石堂由来 創建は小千谷縮みを創始した堀次郎将俊(播州明石出身)。赤石藩の浪人だったが、当地に辿り付き独自の織物技術を確立し村人に伝承したと伝えられています。
死去した延宝7年(1679)、小祠を建立したのが始まりとされます。
その後、江戸時代後期の弘化年間(1844~1847年)、織物関係者によって再建の計画がたてられ嘉永元年(1848)に現在の御堂が完成しました。
御堂は総欅造り、入母屋、銅板葺き、2間2尺四面、高さ三丈八尺の建物で一間の向拝に唐破風、建物全体には吉谷出身の名工、柳田庄左衛門の作である精巧な彫刻(向拝の懸魚には鳳凰、破風には中国故事、欄間には龍、木鼻には獅子、象、基壇には波)が施されています。
説明板より
積雪を考慮した高床式の造りになっている。
内部には小千谷縮布の制作工程が描かれた額装と、柳田庄左衛門作の彫刻が極彩色で彩られています。
ともかく彫刻が凄すぎる!
境内には御堂に隣接し堀次郎将俊の墓があります。
市内を巡っていて偶然目におまったのがここ。
小千谷市立図書館内西脇順三郎記念室・記念画廊 小千谷市立図書館に併設。小千谷出身の文学者西脇順三郎を記念して開設され、西脇の原稿や所蔵していた洋書などを収蔵・展示しています。また記念画廊では西脇が描いた絵画50点を所蔵。うち20点ほどを展示しています。
西脇順三郎が読んでいた本が、約1200冊あまり寄贈されているようです。
町の目立った特徴が雁木。だが片側だけ。
*雁木(がんぎ) 積雪期においても通りを往来できるように開発されたもの。軒を延長し庇(ひさし)を道路側に突き出したもの。
小千谷の雁木は片側のみ。どういう理由からなんでしよう。
市内は河岸段丘上にあるため、あちらこちらに坂や丘が多いです。
*茶郷川 市南部の丘陵を水源とし、いくつかの支川を集め信濃川に注いでいます。
小千谷には織物と肩を並べるドル箱がもう一つあるんですね。錦鯉(にしきごい)です。泳ぐダイヤモンドというやつです。
最後にそれら小千谷の特産品をまるごと紹介している産業会館に行ってみました。
小千谷市総合産業会館サンプラザ
千谷市の産業と観光のPR館です。
世界一の四尺玉の模型の展示や、産業の紹介。数百年の伝統を誇る縮・紬などの展示・販売。
特産品である日本酒、米菓、小千谷そばなど、お土産品の販売。
小千谷織物工房では織物を体験できる実演コーナーがあります。
織之座
伝統的な小千谷縮の技法の展示パネル。織物道具の展示。
小千谷の特産品で、国の重要無形文化財およびユネスコ無形文化遺産に登録されている小千谷紬の伝統文化の紹介。
十世紀初期の『延喜式』に記されている越後麻布は、小千谷でも古くから織られていたもので、千年以上の歴史を誇っています。
パネルより
その越後麻布を江戸初期に改良してできたのが小千谷縮です。
さらに江戸中期に小千谷縮の技法をいかして小千谷紬が織り始められるなど、新潟・小千谷は長い伝統をもつ織物の産地です。
鯉(錦鯉)の町・小千谷
小千谷市錦鯉の里
小千谷市は錦鯉の発祥地です。小千谷市錦鯉の里は、その歴史を紹介し、錦鯉を多くの人達に見ていただける世界唯一の展示施設です。
パンフレットより
錦鯉は、春から秋にかけて土の池で養殖するため、産地では澄んだ水で美しい姿を間近で見ることはできません。このことから小千谷市では、いつでも本場の錦鯉をご覧いただけるよう、1989年10月に小千谷市錦鯉の里をオープンしました。
錦鯉
「錦鯉」とは、色や斑紋があって、鑑賞用に飼育する鯉の総称であり、一般に食用とする「鯉」とは分けて呼んでいます。19世紀の初頭、食用の鯉を観賞用に改良しはじめ、今日の美しい錦鯉へと移り変わりました。
パンフレットより
真鯉から錦鯉へ
現在知られている「錦鯉」は、今から約200年前(1804~1830)の文化・文政時代に新潟県の旧・山古志村(現・長岡市)・小千谷市で食用鯉の突然変異種として誕生しました。つまり「錦鯉」の発祥は、日本の新潟県の山古志村・小千谷市ということになります。
この地は山間部で、住民たちは山肌を段のようにならし「棚田」を作り、米や野菜を栽培していました。そしてこの「棚田」に水を引くため、棚田の上層部に作られた貯水池で鯉を飼育しており、主に雪深くなる冬の食料(動物性たんぱく質)として利用されていましたが、
この鯉がある日突然変異を起こし、真っ黒な真鯉の中に、色の違う鯉や、模様のある鯉が生まれたのです。農民たちはこれを珍しがり、より美しい、 より珍しい鯉を作ろうと改良を重ねました。
国際錦鯉普及センター/錦鯉の歴史
この「突然変異の鯉」は、始めはこの地域の人々たちだけの娯楽でしたが、やがて他地域との物々交換に使われるようになって広く知られることになりました。これにより、それまで娯楽として改良を重ねていたものが、仕事としての養鯉業となり、現在までの間に様々な品種が生まれることとなったのです。
●営業時間:9時~18時(12月~2月は17時まで)
●定休日:12月29日~1月3日
●大人:520円(団体20人以上1人410円)
●小・中学生:310円(団体20人以上1人260円)
●小学生未満:無料
小千谷市の左岸。起伏ある河岸段丘の道をゆく!
小千谷の町を離れる。
旭橋を渡らず左岸を行くことにした。
湯殿側樋門 水門とは思えないほど凝った建物。小千谷陣屋を真似たのでしょうか。
しばらくするとかつての川港の跡が開けてきます。
小千谷港記念碑
小千谷には河戸(川港)がありました。信濃川・魚野川などからの船が行き交い、日本海の柏崎港へ輸送する、その中継点として極めて繁忙のところでした。
小千谷港には上流から来た船荷の荷揚げのほか、対岸の三国街道への渡し船の業務もありました。
十日町からの「妻有船道」、六日町からの「上田船道」、長岡へ下る「長岡船道」など、通船荷物の中継地として栄え信濃川舟運の要衝となっていました。
船の安全や人命の守護を祈ったのでしょう。
旭橋が遠くなりました。眼下一帯が小千谷港の跡。
戊申の激戦地の朝日山や榎峠が遙かに望めます。往時の川港の賑わいが彷彿とします。
石段をのぼると段丘からの景色がパロラマのようにひろがります。
詩作台 郷土の詩人・西脇順三郎がここで詩を詠んだとされる河岸段丘上の高台。背後は旭橋。
西脇の代表的な詩集『アムバルワリア』の中の「旅人」の詩に、この崖の場所が詠まれています。
「旅人」と題した西脇の初期作品。
汝カンシャクもちの旅人よ
文学碑より
汝の糞は流れて、ヒベルニアの海
北海、アトランチス、地中海を汚した
汝は汝の村へ帰れ
郷里の崖を祝祭せよ
その裸の土は汝の夜明だ
あけびの実は汝の霊魂の如く
夏中ぶらさがつている
しばし展望を楽しみました。
段丘を下り500メートルほど進み、信濃川からの引き込み水路の小橋を渡り、信濃川に接近。山本山大橋を撮影しにゆきました。
山本山大橋
国道351号。旭町バイパスの一部。平成11年(1999)架設。553.8メートル。
山本山大橋西詰に向かい、ここから国道117号をゆきます。
すぐに見えてくるのが
首都圏の鉄道運行を支えるJR東日本「小千谷発電所」
十日町市宮中で取水した水は山本第一・第二調整池まで流され、そこから一気に信濃川にもどすところでエネルギーを発電している。ここまでの流路、それはそれは長い道のりです。
20メートルほど進むと赤い橋の山辺橋。
中越地震の時は、橋梁に段差が生じたりと被害のあったところ
JR東日本信濃川発電所
信濃川水系から取水した水を利用している水力発電所で、千手発電所、小千谷発電所、小千谷第二発電所の3つの発電所の総称です。
小千谷発電所での電力は一部を上越線に、残りは千手発電所の電気とともに首都圏(山手線など)に供給されています。
小千谷第二発電所の電力は新幹線用。
ここはJR東日本の鉄道事業を支えるエネルギーの源。
一般公開されています。
小千谷発電所 昭和26年(1951)運用を開始した水力発電所。千手発電所で発電に使用した水をそのまま水路によって導き、山本調整池を経て発電所に導かれる。5台の水車発電機を有し、出力は112.3万キロワット。
*一機を1時間運転で、山手線1編成(E231系11両編成)が約35周分。
凄いの一言ですね。信濃川の恵みが首都圏や新幹線の電力を一手に賄っている。このことはもっと広く認識されていいのでしょう。
放流量を報せるモニター 宮中取水ダムで信濃川から分かれ、トンネルを通ったりタービンを回してきた水は、ここでふたたびと信濃川にもどります。
上片貝観音堂 創建は」享和2年(1802)。昭和60年(1985)屋根を銅板葺に改めた。
上片貝にはいると信濃川の蛇行がきわだってきます。
蛇行する川の内側は広々とした畑です。
信濃川がすぐそこほどの近さになります。
信濃川の川べり。この旅ではじめて信濃川の水にふれました。
「ああ、信濃川の水」だ、とコトバを飲んだ。
信濃川の水。最後に触れたのはいつのことになるだろう。50年は下らないだろうな。子供のころの川遊びや魚つり。宮中ダムの放水。大洪水。信濃川の思い出が走馬灯のようにかけめぐった。
近くの丘の上に小ぶりの社。
片貝神社 上片貝の鎮守。一帯の集落あった社を日吉社に集め五社大明神とし、のち片貝神社のあらためたという。
大きく蛇行をくりかえす信濃川。
牛ケ島大橋付近では特に大きく蛇行しています。
路線バス、「鷲巣」(わしず)停留所。何んと長岡=十日町間の路線バスでした。思わず「へー」。というのも乗れば田舎に帰れちゃうわけです。
*越後交通 長岡鉄道株式会社(田中角栄が社長)がのちに中越自動車株式会社、栃尾鉄道株式会社を合併し越後交通株式会社と改名shたもの。主要株主に田中眞紀子夫妻が名を連ねています。
遠くに牛ケ島大橋が見えてきます。
牛ケ島大橋にむかう途中に広々とした公園と思いきや、廃棄物処理場でした。
清流園 廃棄物処理施設のまわりは広くて公園のよう。
牛ケ島大橋 長岡市川口牛ケ島 ・ 西川口の信濃川に架かる。農免道路牛ケ島線。橋長321メートル。かつては住民の往来や農作業などで牛ヶ島の渡しが使われていたぉうでう。
次の西倉橋までは田圃、畑中の道をチャリでポタリング。
西倉橋(さいぐらばし) 長岡市西川口に架かる。県道川口塩殿(83号)線。昭和50年(1975)開通。 310.0 メートル。架橋以前の西倉集落は渡船に頼っていました。
西倉 長岡市西川口の集落で、古代には人が住んでいた形跡があるところです。
*西倉遺跡 縄文時代草創期の遺跡 。今から約1万年前の縄文時代草創期の遺跡で、指の爪で模様をつけたと考えられる爪型文土器に特色があります
社はどこも素朴。石造物が目立ちます。
庚申塔、道祖神など石造物のオンパレード。関越の工事などでほかにあったものを寄せ集めたものであろう。
川口塩殿線を進み、関越自動車道をくぐります。
越後川口橋 長岡市西川口 関越自動車道 越後川口I.Cー堀之内I.C
関越自動車道の下をぬけ国道117号に出ました。
川井大橋は国道から50メートルほど離れている。
川井大橋 小千谷市道川井細島芋坂線。平成6年(1984)開通。307,0メートル。
かつては、細島 と対岸の真皿との間に「真皿の渡し」というのがあったといいます。
欄干いは川井地区の象徴である「木造愛染明王座像」と「信濃川最後の渡し船」の絵が意匠にされてます。
117号をひたすら進みます。
魚沼橋がもう近い。
魚沼橋で信濃川の右岸にわたります。
魚沼橋 小千谷市岩沢。国道117号。 昭和41年(1966)3月完成。205.6メートル。
かつては真人村芋坂と岩沢村の間に「岩沢の渡し}がありました。
いっときは船を並べた上に板を架けた船橋の時代もあったそうです。
悲願の橋が架かったのは、明治41年(1908)。つり橋式の鉄橋だでした。
岩沢の舟橋。魚沼橋が完成するまで地元民や旅人に利用されていました。
いまの橋は昭和41年(1966)に架け替えられたもの。
流れは静まり返ったように緩やかだ。
岩沢郵便局のさきの信号で越後岩沢駅前通りに入ります。
飯山線の越後岩沢駅にゴールです。
飯山線の越後岩沢駅。駅前駐輪場に自転車を止めさせてもらう。囲いのない屋根があるだけの簡素な駐輪場。無料だからどうこう言えない。次の回まで安全に」保管されることを祈るばかりだ、
飯山線の終点・越後川口駅までゆき、上越線各駅停車で長岡駅へ。長岡から上越新幹線で東京へと帰路をとった。
次へ続く