ポタリング紀行/日本一の大河367㎞をゆく~チャリ膝栗毛~信濃川・千曲川~源流遡行(2)-1

今回の歩みは、

長岡駅~輿板橋~大手大橋~長生橋~小千谷

上野から上越新幹線で長岡駅に到着。

さっそく地下駐輪場にむかい、預けておいたチャリをひき出す。

ざっと点検するに、脆弱なところはみつからない。きょうもしっかり頼むぞとハンドルに力をこめる。

ひとまず大手通りを走り信濃川の土手に出て、前回ゴールとした少し下流の輿板橋までもどることにした。

計測すると輿板橋までは片道14.74キロある。長岡市内でいくつか寄りたいところもある。

そんなこんなを合算し、今日中にひとまず小千谷をめざす予定にした。

越後長岡・中越地方の中央都市、信濃川が流れる雪国の城下町,巨大な 花火が打ち上げられる町!

長岡駅  長岡駅周辺が長岡城の本丸の跡。県内第二位の都会・長岡の玄関口。

本丸跡の標柱があった。

長岡城  堀直竒(ほりなおより)によって縄張されたが、堀氏は中途で村上藩へ移封となり、その後に譜代大名の牧野忠成(まきのただなり)が入って、以降、250年間にわたって牧野家の居城となった。

天守閣をもたない梯郭式(ていかくしき)の平城で、本丸に「御三階」(おさんがい)という三重の櫓が設けられていたという。

梯郭式  本丸の二方、三方を二の丸が囲み、さらにそれらの二方または三方を三の丸が囲む形式。本丸が中心にないので直接に外部と接するため、背後に川や山や断崖など天然の要害を配した。

近世の平城や平山城に多い。弘前城、小田原城、岡山城などがあります。どれも背後に川や山があります。

ひとまず大手通りをたどってみよう。

市役所に入る右手に長岡城二の丸跡の標柱

二の丸跡  兵糧などを蓄えた。大手通り(国道351号)に面し、「アオーレ長岡」の西側一帯。

城内には稲荷神社も鎮座している。

城内稲荷神社  ある雪の日のこと。苧(麻)をくわえた白狐が引いた線に従って、城の縄張りがなされたという。「白狐伝説」にちなんで祀られています。

慶応4年(1868)の北越戊辰戦争で長岡は激戦のるつぼとなり、城は戦火で徹底的に焼き尽くされました。

長岡城址の碑

杉の長板に長岡築城等の歴史を年表風に表示している。

城内稲荷神社  長岡城は白狐のお導きで築城したという伝説があり、その白狐を祀っている。

二の丸跡にシティホールプラザ「アオーレ長岡」
建築家・隈健吾の設計

長岡市役所 市役所とコミュニティスペースと体育館などが一体化されている。平成24年(2012)4月1日オープン。「アオーレ長岡」は一般公募によって決定したもので、長岡弁で「会いましょう」を意味する「会おうれ」をもじったものであるとか。

これはオブジェでしょうが「火炎土器」というもの。このあたりの信濃川沿いの縄文遺跡からは、こんな芸術品のような土器がごろごろ出土しているんですね。眺めているだけで圧倒されます。

大手通り。

本丸の二方または三方を二の丸が囲む

城下町長岡   人口28万人の長岡は長岡城の城下町として、政治・経済の中心地として栄えてきました。幕末の戊辰戦争で大きな被害を受け、復興に際し江戸時代の町割りとは異なる大がかりな開発が行なわれたため、昔日の面影はあまり残されていません。

毎年八月、日本一といわれる花火大会が信濃がべりで開かれ、一夜で何十万人もの観客を集める。

長岡は城下町であり街道の宿場町でもあったが、その街道は城下からやや離れていた。そのことにふれておこう。

摂田屋(せったや)地区   ここは街道ファンならずとも必見のエリア。長岡市街の中心部から南に約4キロメートルほど。旧三国街道沿いにある摂田屋(せったや)地区が、それだ。

江戸時代から明治、大正期にかけての古い町並みと、味噌・醤油蔵、酒蔵などが並び、昔町の風情を残しています。幕末に北越戊辰戦争時の長岡藩本陣が置かれましたが戦禍から免れ、さらに第二次世界大戦の空襲からも逃れ、今も昔日がしのべます。

三国街道  中山道の高崎(群馬県高崎市)から分かれ、北陸街道の寺泊(長岡市寺泊)へ至る街道で、長岡藩、与板藩、村松藩など参勤交代の諸大名や佐渡奉行、新潟港巡検の関八州取締出役などが利用した。

昭和34年(1959)6月には三国トンネルが開通し、群馬・新潟間の自動車往来が可能となった。開通の3年後こと。関東自転車旅行での日光・高崎からの帰り、このトンネルをぬけた。

ちなみに長岡市内における宿場には川口宿/妙見宿/六日市宿/長岡宿/与板宿の5宿があった。

大手通りはやがて「大手大橋」にさしかかります。

才媛三人(貞心尼・杉本鉞子・与謝野晶子)の碑が立つ信濃川べりをゆく!

米どころですので、欄干には稲穂がデザインされています。

大手大橋  全長878.3mでJR長岡駅大手口から直線的な経路にあり一級国道351号線が通じていましう。

昭和60年(1992)暫定2車線で開通し、中越地震(H16)と中越沖地震(H19)の影響で2度中断。平成22年(2019)に4車線化されました。

「大手大橋」の袂に『武士の娘』の文学碑が設置されていることは知っていたので、まずはそこに。

長岡が生んだサムライの娘・杉本鉞子(えつこ)の顕彰碑

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: nagaoka-ojiyaP128017-19.jpg
長岡が生んだ「武士の娘」。鉞子が愛した信濃川。大手大橋東詰に建つ。本を開いた形の碑。

杉本鉞子(えつこ) 明治6年(1873)~昭和25年(1950)

明治6年(1873)に越後長岡藩の家老の娘として生まれた。25歳で結婚のため渡米し、その後、生涯の大半を米国で過ごしました。武家教育を体現した少女時代からの半生を物語風に綴った英語による著書『武士の娘』が、米国でベストセラーとなる。

名前の「鉞」は、「まさかり」のことで、さほどに強い精神を持った武士の娘として育ってほしいという願いから命名されたのだという。

武士の娘   大正14年(1925)、ニューヨークで『A Daughter of the Samurai(武士の娘)』として出版された自伝的な著作。日本の精神や文化を世界に紹介したもので、日本のことがよくわかるといわれ、全米で人気となり、のち欧米八か国で出版された。戊辰戦争の敗北でもたらされた稲垣家の苦渋や回顧談も記されている。

大手大橋から下流の輿板橋まで橋の撮影にむかいます。

前回、夕暮れてカメラにおさめられなかった長岡大橋・蔵王橋・信濃川橋の三橋を順次たどります。

柿川  長岡市南東部に源を発し、長岡市内を流下して信濃川に合流する。

信濃川との合流点に柿川水門と柿川排水機場が設置されている。

柿川は長岡船道と呼ばれる水運の拠点で、川沿いに河岸があり繁華な街となっていたといわれる。

長岡船道  慶長16年(1611)に松平忠輝は、長岡河岸を回米の船着場に指定し、元和2年(1616)堀直寄は長岡河岸に問屋10軒を集め、船108艘をもって船継ぎをするように定めた。これが長岡船道で長岡~新潟間の貨物の運送を一手に担った。

長岡河岸跡  長岡船道は幕領や諸藩の年貢米を長岡河岸から信濃川を通って新潟まで輸送することを義務付けられ、同時に商人貨物の輸送を行うことが認められていた。くわえて信濃川を通行する船は必ず長岡河岸で貨物を積み替えなければならないという、船継河岸の特権をも得ていた。

ほどなく長岡大橋に着きました。

長岡大橋  1,078.2メートル。 国道8号線バイパスの橋。昭和45年(1970)2車線で開通。平成元年(1989)4車線化された。

長岡大橋からもう少し下流へ下る。
しばらくすると、その碑が目にとまった。

良寛の弟子で晩年の師を庇護した尼僧・貞心尼は長岡藩士の娘

蔵王橋のやや上流になる。信濃川右岸の堤防にそれはあった。どうしても見届けたかった「貞心尼」(ていしんに)の歌碑。

貞心尼  晩年の良寛を庇護した女人・貞心尼。長岡藩士の娘として生まれ、17歳で小出の医師に嫁ぐが、離縁となり間もなく出家。その後、古志郡福島村(現長岡市)の草庵(閻魔堂)に住んだ。良寛の最期を看取ったひとり。加賀の千代女、京都の連月尼とともに幕末女流三大歌人と言われる。寂滅は明治5年(1872)2月。享年75歳。

貞心尼歌碑
 夕されば もゆるおもひに たへかねて
 みぎはの草に ほたるとぶらむ 貞心尼

貞心尼歌碑  貞心尼の仮寓する福島村と師良寛の住む和島村との間には 信濃川が横たわっていた 貞心尼が川を渡る時に川のみぎわで 師(良寛の渾名は蛍)を偲んでこの歌をうたったのであろう
     平成7年12月 建立 (財)河川環境管理財団助成金  長岡良寛の会         

(貞心尼歌集「もしほぐさ」収載)

良寛と貞心尼。こんな歌もかわしたりしています。わくわくと、心躍ってる歌です。

いかにせむ 学びの道も 恋草の 茂りていまは 文見るも憂し(貞心尼)

いかにせん うしにあせすと 思ひしも 恋のおもにを 今はつみけり(良寛)

すみれの花を手に持つ良寛像・長岡駅構内

良寛像  托鉢の途中、野に咲くすみれを摘むのに夢中になって、大切な鉢の子(応量器)を忘れたという、ほほえましい逸話に基づいているものだ。

大愚良寛  江戸時代末期。厳しい仏堂修行を経て特異な宗教観や芸術的境地を生み出した傑僧。最晩年に貞心尼と歌作を通し師弟として深い交わりを持った。それは魂と魂が響きあう愛情にあふれた人間的な触れあいであった。70歳の時、島崎村(長岡市)の木村元右衛門邸内に住んだ。寂滅は天保2年(1831)。享年73歳。

滔々と白波をあげて横たわる信濃川の大河を前に良寛は詠った。

「大江茫々、春将(まさ)に暮れんとす 楊花飄々、衲衣(のうえ)に点ず 一声の漁歌、杳靄(ようあい)の裡(うち) 無限の愁腸、誰が為にか移る」

「定本良寛全集」

我が好きな言葉に、

「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候、死ぬる時節には死ぬがよく候、是はこれ災難をのがるる妙法にて候 」

(定本良寛全集 第3巻)

かくありたいと願う。

良寛辞世の句は、貞心尼が『蓮の露』に記しています。有名な歌ですね。

辞世の句  うらを見せおもてを見せてちるもみぢ 

形見の歌  形見とて何残すらむ春は花夏ほととぎす秋はもみぢ葉 

大河が横たわる

さらに進むと蔵王橋。

蔵王橋  国道352号。平成6年(1995)開通。808.0メール。 

長岡城の築城以前。近くに平城の蔵王堂城があり、その名に因んで名付けられたものという。

蔵王堂城  旧蔵王の地は、鎌倉時代には蔵王大権現を迎えると門前町だった。南北朝時代には、中越地方の中心地として南北両軍の争奪の場となりました。

越後守護職上杉氏の重臣・古志長尾氏が蔵王堂の傍らに城を築き、この地方を支配。

慶長年間には堀親良や直寄の居城となり、元和4年(1618)長岡城の築城により廃城に至った。

城跡は本丸、二の丸を中心に土塁・濠跡など、中世の居館や長岡発祥期の城跡を示す貴重なものとして整備されているそうだが、この旅では寄らずに過ぎた。

ガスタンク。特に何というわけじゃないがいい被写体!

次に北陸自動車道の信濃川橋

これで前回写せなかった長岡大橋・蔵王橋・信濃川橋の三橋を撮ることができた。万歳です。

信濃川橋  NEXCO東日本北陸自動車道。長岡IC~中之島見附IC間。昭和53年(1978)開通。960メール。

とてもよく整備された土手だな、と思ってたら、やはりやってました。こういう労力があっての堤防なんですね!

土手の草刈り。大型重機で刈り取っていました。

たちまち前回ゴール地点とした輿板橋に到着しました。

あのとき夕闇に包まれうまく撮影できなかった橋。しっかり写真におさめました。

輿板橋  国道403号。昭和40年(1965年)4月開通。885.6メートル。

右岸側の長岡市並木新田(旧中之島町)と、左岸側の同市与板町与板(旧与板町)との間に架かる。

与板は良寛さんゆかりの地。

かつてあった与板城は、上杉景勝の家老「直江兼続公」の居城でした。

いちどは訪れたい旧与板の町。

正面は西山丘陵。弥彦山は霞んでみえない

長大な橋。すばらし!のひとことです。

いつかこの橋を渡り与板に行ってみたい。

上流側に自転車・歩行者専用の橋が併設されている。

かつては「輿板橋]だったことがわかります。

輿板橋からふたたび大手大橋方向へリターンします。無駄な骨折りだが、旅ではよくあることだ。

振り返るとぐんぐん輿板橋が遠ざかります。自然に溶け込んで優美。

実に快適な土手道です。右手に信濃川。左手は田圃。

北陸自動車を過ぎたあたり、長岡市黒津町を抜けてみることにしました。

長岡の戊申遺跡や寄ってみたい神社・寺がいくつかある。

黒津村の鎮守だったのでしょう。ツツガムシの神社とも言われた黒津春日神社。それと願敬寺(がんきょうじ)もそのひとつ。

黒津春日神社  むかしはツツガムシ(恙虫)の被害が大きく、無病息災を祈った虫除けの祭事が盛んだった。江戸時代には境内に神鹿も棲息していたそうです。

ツツガムシ  ダニ目ツツガムシ科のダニの総称。かつては全国の特に農村部にツツガムシを媒体としたツツガムシ病というのが蔓延した。

願敬寺(がんきょうじ)  真宗大谷派寺院。明治39年(1906)、愛知医学専門学校の林直助が黒津村のここ願敬寺に研究所を設け、ツツガムシが野ねずみの耳に寄生することを発見したとされる。

柿川沿いをゆく。

下々条(しもげじょう) 何んと読んだらいいのか。曰くありげな集落がある。

もともとは下条(げじょう)という村だったものが、近くにも下条村というのがあったたため、明治年間にそれぞれ「上下条(かみげじょう)村」そして「下々条村」という名に改めた。その名残。

その後、黒津村などと合併し「黒条村」となり、昭和29年(1954)長岡市に編入され消滅したが、町名としては今も残るという、曰く付きのところ。

下々条(しもげじょう神社

下条町には5つの神社(十二神社・諏訪神社二座・石動神社・八幡神社)が鎮座していたが、昭和30年頃の区画整理にともなってこの五社を十二神社へ合祀し、社名を下条神社と改めた。以来下条町の産土神として護持されてきた。

三条、中条、上条、下条など新潟県下には「条」のつく地名が非常に多い。だいたいが奈良〜平安時代の「条里制」の土地区画制度に由来するといわれる。

つまり、「条」の字が残っている地名は古さの名残なのだ。

栖吉川(すよしがわ)長岡市内を流下して信濃川に合流する。信濃川水系の一級河川

長岡藩の武士魂を貫いた伊東道右衛門というサムライ!


長岡城の落城の日。長岡藩士 伊東道右衛門、還暦を過ぎた62歳の長岡藩大砲隊長。老体でありながら、西軍の前に名乗り長槍で戦うも、一斉射撃を受け壮絶な最期を遂げます。近代兵器を前に先祖伝来の甲冑を付け、「われと戦わんと欲する者、勝負せよ」と叫び、長岡のために命をかけて闘ったという。

道右衛門が戦死した城岡の栖吉川のほとりには碑が建つ。

雁木

長興寺にゆく途中。

通りの名は失念したが、古風な雁木小路があった。

長興寺

連合艦隊司令長官・山本五十六ここに眠る!

中央が山本五十六墓 左手の高架橋は上越新幹線

山本五十六墓  明治17年(1884)4月4日、新潟県古志郡長岡本町玉蔵院町(長岡市坂之上町3丁目付近)で、旧越後長岡藩士(120石)・高野貞吉の六男として誕生。父親の年齢から「五十六(いそろく)」と命名されたという。

連合艦隊司令長官として、昭和18年(1943)4月18日、ソロモン諸島前線視察の際、南太平洋のブーゲンビル島の上空で戦死(海軍甲事件)した。

長岡藩家老・山本家墓誌  生前、山本五十六によって記されたもの。 

戊申長岡戦争の悲劇ここにみる!

酒井晦堂(かいどう)先生の墓   戊申戦争での戦死の地に父の手によって建立されたものとある。

長興寺ではもう一つ参りたい墓がある。

外交官だった父の九萬一(くまいち)が明治29年10月に建立

堀口大學 明治25年(1892)~昭和56年(1981)

詩人・フランス文学者。長岡藩士の家柄。
ここ長興寺のほか、晩年住んだ神奈川県葉山町の鎌倉霊園にもある。

解説板の下に「新春 人間に」という詩が書かれている。ここではじめて遭遇した詩だ。今日を象徴しているような詩なので全文を記してみる。

「新春 人間に」

分かち合え

譲り合え

そして武器を捨てよ

人間よ

君は原子炉に

太陽を飼いならした

君は見た 月の裏側

表面には降り立った

石までも持って帰った

君は科学の手で

神を殺すことが出来た

おかげで君が頼れるのは

君以外になくなった

君はいま立っている

200万年の進化の先端

宇宙の断崖に

君はいま立っている

存亡の岐れ目に

原爆をふところに

滅亡の怖れにわななきながら

信じられない自分自身に

おそれわななきながら、、、

人間よ

分かち合え

譲り合え

そして武器を捨てよ

いまがその決意の時だ 

堀口大學が齢80のときに書いた詩である。福島第一原子力発電所が稼働した年だ。

「近代日本人の肖像」(国立国会図書館蔵)

そういえば、長岡にはもう一人、「東洋大学」の創設者・井上円了がおりました。

山本五十六、堀口大學の2人に井上円了を加えた3人を「長岡三傑」というらしいです。

長岡凄いですね~!

ちなみに、堀口大學は我が母校の校歌の作詞者でもあるんです。

以下がその一節。(懐かしい!)

我が通いし校舎

昭和30年代/校歌 作詞・堀口大学 作曲・団伊玖磨


ここでもまた昭和っぽさが残る雁木小路に遭遇した。

長岡は裏路地に入るとこんな風な雁木が多いのかもしれない。表通りにはない景色だ。

最後に栄凉寺におもむきました。

北越戊辰戦争で長岡藩を率いた河井継之助、長岡藩主・牧野家の菩提寺で眠る!

栄凉寺  長岡藩主・牧野家の菩提寺。牧野氏が三河国牛久保(愛知県豊川市)城主時代に創建。牧野氏の移封に伴って、上州大胡(群馬県前橋市大胡地区)を経て、現在地に移った。

寺紋に藩主牧野氏の丸に三葉柏の御紋をいただく寺

三島億二郎  長岡藩儒で、復興の恩人とされています。継之助の幼なじみ。北越戦争後、長岡の復興に尽力した。

二見虎三郎の墓  有名な小千谷会談で継之助に同行した。

牧野忠訓 12代藩主。北越戊辰戦争後、廃墟となった長岡の復興に尽力した。

河井継之助  文政10年1月1日(1827年1月27日)~ 慶応4年8月16日(1868年10月1日))

越後長岡藩牧野家の家臣。戊辰戦争の北越戦争で長岡藩を主導。会津若松へ向う途中、塩沢村(現・福島県只見町)で死去。享年41歳。

河井継之助の墓

河井継之助邸跡・河合継之助祈念館

河井継之助の生家跡に建てられた記念館。

河井継之助の人物像を紹介するために長岡市制100周年を記念し2006年12月27日にオープン。

河井継之助生家跡の庭

面影を残す裏庭が少し残っている。

次に山本五十六の生誕地に行ってみみよう。

生家跡は山本記念公園となっており、生家(復元)や胸像などが建つ。

山本五十六記念館

撃墜された軍機の一部が展示されているほか、写真などで生涯を知ることができます。

胸像部をブロンズ像に鋳直したもの

山本元帥生誕記念公園記
山本元帥は長岡の生んだ最大の偉人であるばかりでなく、明治・大正・昭和の三代に於ける日本の代表的偉人である。偉人は遠い處にあるのでなく、他にあるのでなく、我の中にある。誰れもの各個の性質の中にそれぞれ偉人の素質に存している。こゝに来り集まる青少年達よ、大人達よ、この人に學び、この人に倣え。然らば則ち亦偉人となることが出来よう。偉人とは自ら謙虚にして堅忍不抜、自らを人の中に置き、人のために、社會のために、國家のために捧げる人である。これが自らを大に生かす所以である。
 元帥は明治十七年四月四日、この地で、舊長岡藩士高野貞吉六男として生れた。時に貞吉五十六歳であった。後年赫々世界歴史上にその偉大さをうたわれた聖将山本元帥その人であった。長岡の歴史、山川、風土が元帥の修養努力と相待って、その人格と地位とを作り上げたのである。
 元帥の学んだ阪之上小學校、長岡中學校もこゝから近い。青少年達よ、この偉人に續け。元帥は自ら處すること嚴に他を處すること寛であった。自らを捧げて他を大ならしめる山本精神はこゝで生れたのである。
 こゝに我が景仰會が元帥の胸像を安置して、その誕生地を記念し、後進子弟の奮起を待つ所以である。 昭和33年11月3日  山本元帥景仰會

本来の像は山本五十六戦死後の昭和18年(1943)12月に作られ、霞ヶ浦土浦海軍航空隊に設置されたコンクリート製の全身像だった。

戦後、米軍の目を避け元帥像の胸像部を霞ヶ浦に沈め、下部を台座近くに埋めたという。のち胸像部は引き上げられ、広島県江田島の「教育参考館」に展示されている。
公園のブロンズ像は、胸像部分を鋳直復元したもの。

山本五十六の生家(高野家)跡。生家は昭和20年(1945)8月、米軍による大空襲で焼失したため、復元されたものが建つ。

山本元帥生誕の地 
山本元帥は、長岡藩士の髙野貞吉の第六男としてここに生まれ、のちに海軍兵学校にすすみ、少佐のとき長岡藩家老山本家の名跡の絶えるのをおそれ迎えられて山本家を継ぐ。
 大東亜戦に壮烈な戦死を遂げられ元帥府に列し、特に元帥の称号を賜る。ご生家は昭和20年の戦災で焼失したので、これを復元し、ここを山本記念公園と命名した。 長岡市教育委員会

山本有三『米百俵』

米百俵之碑  支藩の三根山藩から見舞いとして贈られてきた米百俵を売却し、その資金で国漢学校の新校舎をここに建築。藩士の子弟だけでなく、町民、農民の子供も入学を許可。近代日本を担った秀才が多く輩出した。

この故事は昭和18年(1943)に刊行された、作家山本有三の戯曲「米百俵」によってひろく知られるようになり、小林虎三郎の精神は多くの人びとに広まった。

戊辰戦争に敗れ、長岡の人たちの暮らしは、その日の食事にも事欠くありさまだった。そんな中、小林虎三郎は「どんな苦境にあっても教育をおろそかにできない」と主張し、明治2年(1869)5月1日から、焼け残った長岡城下四郎丸村の昌福寺の本堂を仮校舎として、国漢学校を開校した。
 翌年5月、長岡の窮状を見兼ねて、支藩の三根山藩から見舞いとして、米百俵が送られてきた。藩士らは、当然分配されるものと待った。しかし、小林虎三郎は、分配しても一人当たりいくらにもならないこの百俵を元にして学校を建てることが、戦後の長岡を立て直す一番確かな道だと説いた。そして、反対する藩士らを説得し、米を売り、その代金を国漢学校の書籍や用具の購入に充てたのである。

長岡ミニ歴史観より

市内で最後に訪れたのは長岡戦争の激戦地。

東西両軍の戦死者が葬られている。

このあたりに上陸した西軍は二手に分かれ、周辺の民家や兵学所に火を放ちながら長岡城下を進撃したとされています。

市内の広いエリアに寄り道したのち、ふたたび長岡大橋に戻った。これもチャリがあればこそ。

ここから信濃川上流に向けきょうの本格的なスタートをきりました。

いくつもの碑が建てられています。ひとつ、ひとつ見てみることにします。

長生橋と大手大橋間の堤防上に一風変わった文学碑。何を模ったものか。

海音寺潮五郎(かいおんじ ちょうごろう)文学碑

一文と短歌が記されている。

「大ひろ野 流るる川の 信濃川 ゆたかなるかも 美しきかも」(流域紀行)

「水の量といい、日の光をはじき返している川原の砂といい、岸の草木といい何とも言えずつややかで光かがやく美しさと豊かさを持っていたのである。」
「この川はどの川にも似ていない。豊かで堂々として美しいのである。」
「日本で川の王者をえらぶとすれば、この川のほかにはあるまい。」

碑文より

海音寺 潮五郎、明治34年(1901)~ 昭和52年(1977〉

直木賞作家。『武将列伝』、『天と地と』、『平将門』など歴史小説を多数発表。

昭和44年(1969)のNHK大河ドラマ作品で、上杉謙信の半生を描いた「天と地と」の原作者。

『流域紀行』  11人の作家が全国の河川を訪ね流域の歴史風物を掘り起こた新日本風土記。
中で海音寺潮五郎は信濃川を讃えている。(朝日新聞社・朝日選書 1976年刊 )

長生橋東詰広場がひろがる。

緩やかな堤防が整備され公園の河川空間となっいる。

そこに与謝野夫妻の歌碑

晶子  越ひろし長生橋の上しもに つらなれる山他州にあらず

寛-  落つる日を抱ける雲あり越の国 大河を前にしぐれんとする

昭和9年(1934)、講演会のため長岡入りした夫妻が、長生橋の袂で詠んだ歌。

「あまたある洲に一つづつ水色の 越の山乗る信濃川かな」

もうひとつ与謝野晶子歌碑

こちらは、翌年の昭和10年(1935)、晶子が再び長岡に来たとき詠んだ歌。

堤防上の広場に白御影石の巨大な石が横たわる。長い詩。だれもが思うような望郷の想いが語られている。

信濃川よ 静かなるながれを見れば かぎりなく想ひわくかな・・・

信濃川 詩碑   

星野 慎一  明治42年(1909)~平成10年(1998)

長岡市生まれ。旧制新潟県立長岡中学校、旧制新潟高等学校を経て、1932年東京帝国大学文学部独逸文学科卒業。ドイツ文学者。リルケの研究者で、「若きリルケ」「リルケとロダン」「晩年のリルケ」「ゲーテと鷗外」「ゲーテと仏教思想」や、翻訳「リルケ詩集」「ゲーテ詩集」など著書は数多い。

詩集に「郷愁」「高原」がある。ここの詩碑は「郷愁」に所収されているもの。

大河に架かる橋。背後に越後山脈。与謝野晶子が心打たれた景色。

長生橋  850.8mのトラス橋。国道351号線に架かり昭和12年(1937)開通の3代目橋。東北・北陸地方ではもっとも長大な道路橋だった。ゲルバートラス橋としては日本国内で唯一現存する橋だそう。

背後に「越の山乗る」のだが、きょうは山がぼやけてみえない。

信濃川の中流域に当たる長岡市周辺は900メートルと川幅が広くなる。
その広い川幅を利用した日本一の大花火大会があり、毎年100万人の人出で賑わう。

長岡花火のシンボル、ナイアガラ(しかけ花火)は、この長生橋と大手大橋から落とされ、長岡市のシンボル的な橋梁ともなっている。

大正時代までの橋は木橋だったが洪水で流出。昭和12年(1937)10月、永久橋として架橋されたのがこの長生橋。

昭和20年(1945)8月1日の長岡空襲では焼夷弾の直撃を受けものの、損傷が少なく、このことが戦災復興祈願の『長岡まつり大花火大会』の会場へとつながっているという。

草生津の渡し(くそうづのわたし)  橋のない時代は、川東地域(草生津)と川西地域(本大島)の間を渡船が往来をしていた。

対岸から渋海川・須川が流れ込む。

かつては「草生津渡し」があった。

フェニックス大橋 国道 404号。1,272メートル。平成25年(2013)に開通。信濃川・渋海川に跨り、信濃川では最も長い橋になっている。

信越線の鉄橋  JR東日本 信越本線。602.0メートル。昭和27年(1952)開通。

越路橋 県道 柏崎高浜堀之内線(23号)。平成10年(1998)開通。596.0メートル。 左右に2.5メートルの歩道。

越路橋  明治時代にイギリスから技術導入された鉄橋の旧越路橋。昭和時代に「浦村鉄橋」から「越路橋」へと名を変えながら一世紀あまりにわたって活躍しました。
新しい越路橋が開通したことにより、旧越路橋はその役目を終え、その一部が長岡市越路河川公園に保管され見ることができます。

行く手に妙見堰がみえてきます。

堰のたもとは広場。

三宅の里 大同2年(807)鎮座の延喜式内社・三宅神社があり、一帯は古くから三宅の里と呼ばれていたそうです。   

タイルに長岡藩藩旗の「五間梯子」など道中用具といったもんが描かれています。

 三宅は屯倉(みやけ)からきているもので屯倉跡がある。

*屯倉  ヤマト政権の支配制度の一つ。直轄地経営の倉庫などを表したコトバで土地も含め屯倉と呼ぶようになった。全国に設置され、のちの地方行政組織の先駆けとも考えられている。

妙見番所跡  信濃川を往来する船の監視をした船番所。交通の要所として重要な役割を果たした。長岡近郊から輸送された産物はここでチェックを受けた。妙見堰の完成とあわせ番所跡が復元されました。

妙見堰

妙見堰 平成2年3月に完成した堰の長さ524メートル、主ゲート7門の水利施設。信濃川の河床安定、長岡市上水道の取水、灌漑、JR発電用水の水位流量の調整、国道17号バイパスの道路橋梁などの役割を担っています。堰自体は発電機能を持っていません。

越の大橋  国道17号。小千谷バイパス。519.4メートル。平成5年(1993)、妙見堰の竣工と合わせて開通された。国土交通省長岡国道事務所が管理している。

施設全体の管理業務は国土交通省、JR東日本エネルギー管理センター、信濃川発電所の三者共同で行われている。国土交通省直轄ダムとしては異例のケース。

妙見から信濃川をはさみ三仏生方面を望む。

左岸・三仏生/右岸・榎峠 戊申戦争時の川幅はどうだったのであろう。

妙見堰から1キロほどのところに戊申の古戦場跡がある。

榎峠古戦場跡

北越戊辰戦争の激戦地。

長岡藩の戦いは、榎峠で始まりました。
長岡藩は、新政府軍に占拠された榎峠の奪還に向かいました。

信濃川対岸からの新政府軍の砲撃に苦戦しますが、迂回していた別働隊が側面と背後から新政府軍を包囲し、榎峠を奪還。
戦いは南側のもう一つの要塞、朝日山の争奪戦へ移っていきました。

榎峠 山麓が信濃川になだれ込んでいた旧三国街道の難所でした。

上越線がもっとも接近するところだ。

榎峠古戦場パーク

上越線が榎峠のある小山をトンネルでぬけています。

やがて見えた来たのが小千谷大橋。

小千谷大橋  国道17号。小千谷バイパスを供用。昭和57年(1982)架設。584.9メートル。2.5メートルの歩道が付属。

ここまで来て橋を目前に、ハタと気がついた。

榎峠の前に行くべきところがあった。「越の大橋」西詰。

そこには司馬遼太郎の『峠』文学碑がある。そこに行くのをうっかり忘れていたのだ。

素通りするのは無念なので、小千谷大橋をわたり現地まで走ることにした。

地図で見ると2.8キロほど。国道17号が通じている。


司馬遼太郎『峠』文学碑

西詰から望む「越の大橋」

小千谷市高梨の「越の大橋」のたもとにある。

主力は十日町を発し、六日市、妙見を経て榎峠の坂をのぼった。坂の右手は、大地が信濃川に落ちこんでいる。
 川をへだてて対岸に三仏生村がある。そこには薩長の兵が駐屯している。その兵が山腹をのぼる長岡兵をめざとくみつけ、砲弾を飛ばして来た。この川越えの砲弾が、この方面の戦争の第一弾になった。 

碑文より

長岡藩の河井継之助を主人公とした小説「峠」、その記念碑が直筆で刻まれている。

『峠』のこと

江戸封建制は、世界史の同じ制度のなかでも、きわだって精巧なものだった。 17世紀から270年、日本史はこの制度のもとにあって、学問や芸術、商工業、農業を発展させた。この島国のひとびとすべての才能と心が、ここで養われたのである。

 その終末期に越後長岡藩に河井継之助があらわれた。かれは、藩を幕府とは離れた一個の文化的、経済的な独立組織と考え、ヨーロッパの公国のように仕立てかえようとした。継之助は独自な近代的な発想と実行者という点で、きわどいほどに先進的だった。

 ただこまったことは、時代のほうが急変してしまったのである。にわかに薩長が新時代の旗手になり、西日本の諸藩の力を背景に、長岡藩に屈従をせまった。

 その勢力が小千谷まできた。かれらは、時代の勢いに乗っていた。長岡藩に対し、ひたすらな屈服を強い、かつ軍資金の献上を命じた。

 継之助は小千谷本営に出むき、猶予を請うたが、容れられなかった。といって屈従は倫理として出来ることではなかった。となれば、せっかく築いたあたらしい長岡藩の建設をみずからくだかざるをえない。かなわぬまでも、戦うという、美的表現をとらざるをえなかったのである。

 かれは商人や工人の感覚で藩の近代化をはかったが、最後は武士であることにのみ終始した。武士の世の終焉にあたって、長岡藩ほどその最後をみごとに表現しきった集団はいない。運命の負を甘受し、そのことによって歴史にむかって語りつづける道をえらんだ。

「峠」という表題は、そのことを小千谷の峠という地形によって象徴したつもりである。書き終えたとき、悲しみがなお昇華せず、虚空に小さな金属音になって鳴るのを聞いた。
 
    平成5年11月  司馬遼太郎

文学碑より

西詰の小公園

信濃川と対岸の激戦地・榎峠、朝日山方面を望む

*令和2年(2020)、『峠』は、『峠  最後のサムライ』(監督:小泉堯史監督、主演:役所広司)で映画化されました。


小千谷大橋までのもどりは三仏生村時代の旧道を行くことにした。

三仏生とは薬師、観音、阿弥陀の3体の仏像のことなのだが、信濃川から上がった説や土中より掘出したものとか諸説あり詳らかでない。古くは岩野村といわれたそうだ。

*三仏生遺跡  清水上遺跡(しみずのうえいせき)とも。縄文時代中期から弥生時代にかけての複合遺跡。(小千谷市指定史跡)。ここから出土した縄文後期の土器は三仏生式土器と呼ばれるようだ。

三仏生百塚  約1キロにわたり100基以上の塚がある。詳細は不明ですが、百塚を正確に数えることは不可能、数えることはタブー視され命が縮まるといういわれがあるそうです。

百塚を勧められたが、夕暮れてもきたのでいささか怖気づいてしまった。

壮観を超え異観さを覚えるであろう。

ひときわ目立つ社なので寄ってみた。

白山神社  古くは信濃川の土手内にあったらしい。文禄年間(1592~1596)の信濃川の洪水で社地が流されたことから、ここに移転したと伝えられている。

郵便局の名が三仏生
信濃川を挟み榎峠・朝日山方面。昔日の川幅はどれぐらいだったのか。

主力は十日町を発し、六日市、妙見を経て榎峠の坂をのぼった。坂の右手は、大地が信濃川に落ちこんでいる。
 川をへだてて対岸に三仏生村がある。そこには薩長の兵が駐屯している。その兵が山腹をのぼる長岡兵をめざとくみつけ、砲弾を飛ばして来た。この川越えの砲弾が、この方面の戦争の第一弾になった。 

司馬遼太郎『峠』

司馬さんも、このあたりを歩いたのではなかろうか。

薩長の兵が駐屯していたところは村のどのあたりだったのか。村全体がごったがえしていたであろう。そんな光景を思い描いてみた。

横一文字に小千谷橋

ちなみに、小千谷橋西詰のさき、三仏生の十字路が国道117号の分岐点になる。昔から馴染みのある我がふるさとの国道だ。これからわこの先で長いことお世話になる。

小千谷橋東詰にもどり、さきを進めた。

小千谷市に入ると目立つのがこれでしょう。

錦鯉の看板。養魚場が広く点在しています。

東京の日比谷公園で年1回、錦鯉の品評会が行われるのを思い出した。

日比谷公園の品評会で撮影。公園の樹木が投影している。

国道291号  群馬県前橋市から新潟県柏崎市に至る一般国道。 

難読文字の薭生村本村(ひうむらほんそん)という十字路に着く少し手前の左手に華やかな鳥居。

宇都宮神社  長い参道。先に石段もあるみたいなので鳥居で拝させてもらった。しかし何でこんなところに宇都宮神社が。下野国宇都宮(栃木県宇都宮市)の二荒山神社がルーツらしが、調べても由緒が出てこない。この辺りではもう一つ同名の社が見える。

酒どころらしく、高の井酒造の南隣には中村醸造というのもある。

上越線小千谷駅前に到着。

小千谷駅  東日本旅客鉄道(JR東日本)上越線の駅。信濃川右岸の河岸段丘上にある。

越後平野の南端にあり、中越地方に属している。市街地はJR小千谷駅を含む信濃川両岸の河岸段丘上に形成されており、信濃川が広い越後平野へ出る接点に広がっている。姿勢的んは谷口集落である。

谷口集落(たにぐちしゅうらく)  山地から平地に河川が流れ出る谷口に形成された集落をさす。山地と平地の生産物を交易する核心集落としての性格をもつ。渓口集落(けいこうしゅうらく)とも呼ばれる。

堤防完成記念碑

信濃川右岸堤防 ここにあり この川静かに流れよと 祈りつつ

碑文から

小千谷駅前で信濃川の左岸に渡ります。

旭橋  国道291号。昭和34年(1959年)架設。350.5メートル。

橋が架かるまでは「中子の渡し」というのがあったそうで、明治20年(1887)に木橋の旭橋が架かり渡しは消えた。現在の橋は昭和34年(1959年)の架橋でわりと古い。

平成4年(1992)春。旭橋は化粧を直しされ、東西の親柱に御影石に刻ん西脇順三郎の詩歌がはめこまれた。

東詰めには小千谷高校の校歌の一節。
 「信濃川静かに流れよ 我が歌の尽くるまで」
  「つきせぬ思い若き日の 銀河にうつる高楼は見よ八海の春高し」。

西詰めには小千谷西高校の校歌の一節。
 「ああまたこの故郷に来てみれば 八海の山山かすみ 信濃川は静かに語る」
  「ああまたこの故郷に来てみれば 冬の日は白く浮きて 飛びくる鳥は天使の翼」。

歌碑より

西脇 順三郎(にしわき じゅんざぶろう)

明治27年(1894)~昭和57年(1982)

小千谷市に生まれる。日本の詩人(近代詩)、英文学者、文学博士。
88歳で生涯を終えるまでに多数の著書を残した。

わが国におけるシュールレアリズム(超現実主義)詩風の旗頭として「新詩精神運動」をおこし異才を放った。

唱和39年(1964)小千谷市名誉市民、庄和6年(1971)文化功労者に選ばれた。

西脇家は江戸時代に縮仲買業で財を成した小千谷有数の豪商・大地主。

本町通り。旭橋に向かい緩く傾斜している

本町が小千谷市街の目貫き通り。

信濃川の河岸段丘上に市街地が発達しており坂の多い町である。

今日は小千谷泊り。

すんなり予約がとれた。

市街地の裏通りの高台にあるホテル。

続く

次回までしばらくお待ちください。

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