ポタリング紀行/日本一の大河367㎞をゆく~チャリ膝栗毛~ 信濃川・千曲川源流遡行 (1)-2
今回の歩みは、
新潟市 江南区 酒屋町(さかやちょう)~大河津分水~長岡駅
信濃川と小阿賀野川の合流点・酒屋で朝を迎える!
カラオケボックスで一夜をしのぎ、そして翌朝。
しょぼつく目をこすりながら早々にそこを退散。
寝不足の目に朝日がまぶしい。
夕べの憂さを晴らしてくれるような鬱憤晴らしの快晴だ。
ペダルをグングン踏んで酒屋にむかう。
今時にしては目をみはるほど豪勢なお蔵。かつていた豪農・豪商のお家柄でしょうか。
小阿賀野川の朝明け。まだまどろんでいるが、まぶしい。
亀田一帯では、江戸時代の終わりころから梨の栽培が始められ、今日では県内でも指折りの産地となっています。
信濃川・小阿賀野川の「河川管理区域境界標」。
小阿賀野川に架かる亀鶴橋がきょうの起点。
蒲原平野に広がる新潟の穀倉地帯、旧亀田郷をゆく!
2005年3月竣工の3代目の亀鶴橋。長いですなぁ。全長174.7 メートル。新潟県道1号新潟小須戸(こすど)三条線が通じている。
新潟県道1号・新潟小須戸三条線 通称は小須戸線(こすどせん)。新潟市中央区から三条市に至る主要地方道(新潟県道)である。
これから大方はこの線をたどることになる。
信濃川の右岸側をほぼ川に沿うよう付かず離れずにゆきます。
亀鶴橋から1.7キロほどしたところ、やや県道から離れているが、信濃川に架かる大郷橋をみる。三枚潟という十字路から橋際まで往復80メートルほど。今日最初に目にする信濃川の橋だ。河川敷の中を長々と通じている。
大郷橋 137.0メートル 昭和41(1966)開通。県道46号。右岸側の秋葉区覚路津字三枚潟(かくろづあざさんまいがた)と、左岸側の南区大郷(だいごう)との間を結んでいる。
大秋排水機場を通過します。
大秋排水機場付近の河川敷には「信濃バレー」というゴルフ練習場などが広がっています。
信濃バレー親水レクリエーション広場
信濃バレー親水レクリエーション広場
全長が見届けれないほど長い!
臼井橋。
514.5メートル。平成27(2015)の開通。国道460号。
このあたりに赤渋の渡しがあった。新臼井橋が建設進行中でした。
前方に雪をカぶった西山三山がみえる。
小須戸河岸 ここは長岡船道の指定河岸で、船着場には荷揚げ従事のものが常時4、50人はいたそうです。
明治になると蒸気船(川蒸気)が就航。魁丸や安全丸、安進丸が航行。安進丸が最後まで残っていましたが、昭和の初めには姿を消したといわれています。
小須戸橋が見えてきます。
小須戸橋に到着しました。
小須戸橋 L=213.9m S38.12(1963)開通です。小須戸橋は、県道41号線(白根安田線)に架かりⅬ=213.9m s38.12(1963)の開通です。かつては「戸石の渡し」というのががあった。
小須戸 新潟市秋葉区。信濃川の舟運で栄え川湊・在郷町。江戸時代には長岡船道の指定河岸(船着き場)となっていたという。
*在郷町 「郷(田舎)に在る町」。農村の中に形成された町場。農村の商品経済の発達にともない元禄・享保頃から全国的に形成されていった。
なおも信濃川右岸側を県道1号線(新潟三条線)に沿って遡ります。
地図をみると次の庄瀬橋まで6キロ半ほどの間、信濃川に橋が架かってないようです。
堤防上は幅広く舗装され、クルマも来ないからウオーキングにもサイクリングどっちも快適。
河川敷内に「雁巻緑地公園」が見えてきます。ヤッホ~天空が広~い。
ずっと長く「〇〇新田」といったかつての新田集落が続きます。
蒲原平野の北東部、新津郷、低湿地・泥田・水害からの解放!
新潟県は、コシヒカリが実る「コメ王国」として知られていますが、そうなるまでは長い年月がかかっています。沼地や水はけの悪い田んぼが多く、毎年のように洪水に見舞われ、米の収穫量は安定せず、しかも品質の悪い米が多いことで悲し評判をとってました。
蒲原平野 蒲原郡は広い。 郡域 は5分割され東蒲原郡、西蒲原郡、南蒲原郡、北蒲原郡、中蒲原郡とあるが、これらは行政区画されたものではない。
広く「越後平野」とも呼ばれる県下最大の平野で、面積は約2000平方キロメートルと、東京都の面積ほどの広さがあります。信濃川などから流れてきた土砂が長い年月をかけて堆積してできたため、水はけが悪く、水田は泥沼のような湿田でした。名のごとく蒲のような水草の生い茂る低湿地帯で農耕に適さない土地でした。領民は代々干拓や治水に力を入れ、新田開発を進めていましたが、さらに、洪水が度々発生し、そこに暮らす人々の生活は大変なものでした。
特に水害が多かったのは新潟県中部の平野。
西蒲原郡(現在の弥彦村、新潟市岩室、新潟市巻、新潟市黒埼、新潟市西川、新潟市味方、新潟市潟東、新潟市月潟、新潟市中之口、燕市分水、燕市吉田)、南蒲原郡(現在の田上町、三条市下田、三条市栄、長岡市中ノ口、加茂市、見附市、など)の一帯でした。
参考『新潟文化物語』
蒲原平野に壊滅的な被害を与えてきた水害。
この解消に向けて動きだしたのが分水町大河津に建設された大河津分水でした。
越後の「コメどころ」穀倉地帯、蒲原平野を潤す排水機場地帯をゆく
水田揚水機場に設置した完工記念碑。「拓水の功郷民永く康し」 佐藤農水大臣の揮毫。
機械排水による開田が可能となり、各所に排水機場が設置されました。
五社川(ごしゃがわ)水門に着きます。信濃川の増水に備えた水門です。
またも水門。
才歩川(さいかちがわ)水門 信濃川増水に備えた水門・「才歩川水門」が整備されています。
このあたりの信濃川沿いは排水場や水門が目白押し。長い水害の歴史の果ての栄光ともいえよう。
ひろい蒲原平野を眺めていると、どこということなく、思い出すものがあります。
信濃川や中小河川の氾濫や洪水、それに伴う悲惨な人間ドラマがあったことです。
江戸時代の宿場女郎(飯盛女)たちの故郷は越後蒲原が多かったという!
たび重なる水害や飢饉で窮乏のどん底にあえぐ農民たちは農地を次々と手放し(反面で豪農がふえた),小作農や地主に雇われ奉公人になっていった。また娘らは証文ひとつで身売りされ宿場の「飯盛女」(めしもりおんな)となるものが多かったという。
*飯盛女(めしもりおんな) 江戸時代、宿駅の旅籠屋で旅行者を相手に寝食の世話をした幕府黙認の娼婦。
上州群馬県の民謡に『八木節』、『木崎音頭』というのがあります。
どちらも例幣使街道の八木宿、木崎宿で歌われた民謡です。
『旧木崎節』。その一節を記してみます。
〽越後蒲原ドス蒲原で 雨が三年日照りが四年 出入り七年困窮となりて
新発田様へは御上納が出来ぬ 田地売ろうか子供を売ろうか
田地は小作で手が付けられぬ 姉はジャンカで金にはならぬ
妹売ろうと御相談きまる
妾(わた)しゃ上州へ行って来るほどに
さらばさらばよお父さんさらば さらばさらばよお母さんさらば
まだもさらばよ皆さんさらば
新潟女衒にお手々をひかれ 三国峠の山の中
雨はしょぼしょぼ雉るん鳥や啼くし やっと着いたが木崎の宿
木崎宿にてその名も高き 青木女郎屋というその家で
五年五ヶ月五五二五両 永の年季を一枚紙に
つとめする身ははさてつらいもの(略)
「蒲原くどき」といわれるもので、農民の悲哀やドン底の悲鳴が込められています。
こうした一連のことを知り得たのは、作家・水上勉の『良寛を歩く』でした。
水上勉は上州の木崎宿を訪ね、そこに残る飯盛女の墓を目にし、その墓石に思いを寄せます。
そこからあぶり出されるものがありました。
曹洞宗の僧侶・良寛が五合庵を結んでいた越後蒲原出身の娘が多く、時代も良寛のそれと重なるのでした。
さらに、良寛が一緒に手まりをついた中から、売られていった娘もいたかも知れないと、作家らし思いを巡らします。
「八木節の起源は八木宿と同じ例幣使街道に存在する宿場・木崎宿で歌われてきた木崎節であるとされる。」
『日本民謡集』(町田嘉章、浅野建二)
さらに、その『木崎節』のルーツを求めれば新潟県十日町市付近で唄われていた民謡『新保広大寺節』にたどりつくという。これが三国峠を越え上州方面に定着し、その一つが『木崎節』となったといわれます。
灯台下暗し(とうだいもとくらし)で、わたしが育った町の近郊がその民謡の故郷でした。
越後平野のすさぶ野面に響いた瞽女歌。越後女の流れ唄だ!
『新保広大寺節』の伝播に介在したのがこうした越後瞽女といわれる女性芸能者たち。
三味線をかかえて連れだって歩く「女しょ」(女衆・越後方言)が訪れた。
*瞽女(ごぜ) 「盲御前(めくらごぜん)」という敬称に由来する女性の盲目(「視覚障がい者」)芸能者のこと。各地を転々としながら三味線を弾き唄い、門付(かどづけ)巡業を主として生業とした旅芸人。地方の人びとへの芸能提供者。
身辺に近寄り難い切なさを漂わせていた。幼心に幻影のようにうっすら残る瞽女の面影だ。夢のようでもある。
隣の家が瞽女宿だったのだろう。瞽女さが来て夜になると人が集まった。人々は瞽女歌や口説きに耳を傾けたのであろう。
そんな記憶の呼び水ともいえる一文に出会うことができた。
かなりの時代差はあるが、その記憶はわたしと相似たものを感じる。
「私の子供の頃といっても数十年昔のことになるが、大正末年から昭和の初めにかけては、越後の村々はどこでも毎年ゴゼの来訪をうけた。
手に三味線をたずさえながら、雨風もいとわず、雪みぞれにもへこたれず、村から村へ、家から家へと門づけする。たいてい三人が一組となり、半盲の手引きを先導に村を訪れてくる。
娯楽に恵まれない村人たちは、夕飯がすむと三々五々と誘いあってゴゼ宿に集まってくる。門づけのときとちがい、今度は一晩たっぷりとゴゼ歌を堪能できる。演者と聴衆の気持ちが融けあい、会場の熱気がいやが上にも高まる。そしてさわりのところにかかると、あちこちから感嘆の掛け声がとび出す。それに応じていっそう語り手・歌い手の力がこもる。
桜井徳太郎の「季節の民俗」(秀英出版)
すると、感極まった見物席のかなたこなたから投げ銭がはじまる。
瞽女集団はとくに、新潟県を中心に多かったので「越後瞽女」ともいい、中で名高いのが「長岡瞽女」、「高田瞽女』だった。彼女らが最後まで暮らしていたのは新潟県胎内市。
昭和39年(1964)頃だっただろうか。瞽女の親方で、最後の瞽女といわれた杉本キクエさんの死亡が新聞に報じられた。このときが瞽女の終焉でした。
それにしても、今思うのだが、あの頃が芸能を提供する、いわゆる旅芸人が廃れ消滅していった端境期だったのではなかったか、と。
そこに重ねて思われるのは、わたしも強い関心を持ったものだが、俳優の小沢昭一が役者のかたわら、日本各地を歩き廻り、そうした放浪芸の生の芸をドキュメントとして集大成していたことです。実に地味で貴重な仕事をしていました。
*小沢昭一は70年代前半に日本の各地を歩き回って、廃れゆく大道芸や香具師(テキヤ)、僧侶の節談説教、瞽女歌などを取材し、録音で構成した巷間芸能集成を世に出しました。71年から77年にかけ計4タイトルのLPセットをビクターから発売しました。もう滅茶苦茶、貴重な音源です。個人がやり遂げたことが、凄いですね!やむにやまれぬものがあったのでしょう。感動します。
*門付 門口に立ち芸能や語りなどを披露し金品を受け取る形式の芸能 の総称であり、およびそれを行う者をいう。
新保広大寺節 江戸時代の五大流行唄の筆頭とされる。北上した越後瞽女は、山形、秋田、青森、北海道と唄い歩き、そして「津軽じょんがら節」、「口説節」(くどきぶし)、「道南口説」、「北海道鱈つり唄」などに流れ継がれていったとされます。
*口説節 座興に歌われる俗曲の一ジャンル。市井の情話などを長編の歌物語にしたものが多い。
のちにわたしも例幣使街道を歩いたおりに、木崎宿で飯盛女の墓を訪れたことがあります。
蒲原生まれの哀れな女たちが木崎に来るまでの流転の道すじをあれこ思い描いて、ひどく物語めいた気分に誘いこまれたことを覚えている。
蒲原平野の野面を見渡すと、木崎の宿で目にした飯盛女の墓と、昔の悲劇が思われます。
「新保広大寺節」に唄われた新保広大寺。その寺がわたしの育った足元近くにあるのも、何かの因縁とでしょうか。
その新保広大寺に立ち寄れるのもこの旅の楽しみの一つである。
湖面かと錯覚しそうな静やかな信濃川。
泥田から乾田の美田に変わった蒲原平野の野面。
庄瀬橋(しょうぜばし) 県道55号線(新潟五泉間瀬線)に架かり Ⅼ=237.0m s42.3(1967)開通の橋です。
庄瀬 戦国時代から明治22年(1889)まであった庄瀬村の区域の一部で、地名の由来は、上杉の臣・庄瀬新蔵の采地だったことによるものだという 。
左手に田上郷排水機場が現れます。
地図をみると、対岸にユニークな地名で鋳物師與野(いもじごうや)というのがありますが、向かうに橋がない。
*鋳物師與野 旧白根市の大字。鋳物師興野の区域の一部。新発田氏家臣・相馬久右衛門という人が主家滅亡後に鋳物業を修得し、のち同志とともに新発田藩の許可を得て当地に来住し開発したことによるものとか。
やがて加茂市に入り五反田橋に出ます。
五反田橋 加茂市五反田と南蒲原郡田上町の信濃川に架かる。新潟県道9号長岡栃尾巻線。橋長532.5 メートル。
新潟市南区 旧白根市・旧味方村・旧月潟村の合併で誕生した区。旧白根は蒲原郷の農村の中心地として、また中ノ口川の舟運で栄えた川港の在郷町。白根仏壇の町で、かつては白根絞りの一大産地。伝統の白根大凧合戦でも知られる。
西蒲原郡月潟といえば、角兵衛獅子(越後獅子とも蒲原獅子とも)の発祥の地でもあります。
*角兵衛獅子 飢饉や洪水などの被害を受けた農民の子どもたちが、窮乏を救うため、各地をまわり獅子舞を披露してお布施をいただく芸能集団のこと。
洪水の常襲地帯である月潟村では、中ノ口川の氾濫が年中行事でした。その度に収穫が水の泡と帰しました。先人たちはそうした困難と闘ってきました。
月潟村が発祥の地とされる角兵衛獅子の舞は、かつて洪水による村人の疲弊の中から救済の手段として生まれたとも伝えられています。
旧白根市庄瀬 明治22年(1889)からの大字。戦国時代からあった庄瀬村の区域の一部で、地名の由来は、上杉の家臣・庄瀬新蔵の領地だったことによる 。
庄瀬は社寺がまとまったところだ。
荘廼瀬神社(しょうのせじんじゃ) はじめて聞く神社名で、読めなかった。変わった名で異色と思われるのだが、由来や仔細がわからない。境内に説明板らしきものも見あたらないのだ。
近くに瓦葺きの山門をもつ寺がある、
法華宗 法楽寺
新潟県三条市にある「本成寺」が法華宗の総本山。
古くから開けた庄瀬の町並み。
どっちみても水田。越後平野のど真ん中をゆく思いがする。
加茂市に入ります。
東詰の下流側で信濃川と 加茂川 が合流しています。
信濃川の平野地帯の流れをよく表しています。
ゆったりした信濃川にこれまたゆったりとした加茂川が流れ込んできます。
加茂川との合流地点に着きました。
保明大橋を渡ります。
保明新田の交差点。右に行くと信濃川に架かる五反田橋に出ます。
五反田橋 県道67号加茂巻線。532.5メートル 。
保明大橋も五反田橋もクルマがぎっしり。
保明新田の交差を過ぎます。
市立加茂西小学校の校舎とその近くの町並みが何となく昭和を思い出させます。
このあたりは加茂新田という古くからの新田集落。
レトロ感のある市立加茂西小学校の正門と校舎。
近くの町並みもどことなく趣がありました。
しばらくすると加茂大橋にぶつかります。
擬宝珠の欄干とは。格調が高いですね!
加茂大橋 県道9号線(長岡栃尾巻線)。505.8メートル。平成22年(2010)開通。
下条川が合流します。高欄の擬宝珠は当地に古くからある青海神社、長瀬神社にちなんだものと聞きました。
新下條橋を渡りきると、このあたりから、川がS字状に大きく蛇行します。
山島新田、天神林、柳場新田、三貫地新田と曰くありげな新田集落が石上大橋のあたりまで続きます。
ほどなく巨大な構造物、大島頭首工管理橋 (おおしまとうしゅこうかんりきょう)に到着。
橋と言っても通行道ではありません。
なんだか巨大ロボットみたいで、不気味な景色。
大島頭首工管理橋 信濃川と中ノ口川に挟まれた輪中地帯と信濃川右岸の加茂市・田上町に農業用水を供給する目的で、平成5年に完成した取水の設備です。
道路はまっすぐにのびている。信濃川べりまではどこも20~30メートル。
やがて見えてくるのが景雲橋。
三貫地の交差点から橋のたもとまで行く。
景雲橋(けいうんばし) 国道8号と国道403号を結ぶ県道537号線(塚野目代官島線)。長さ431.0メートル。平成元.年(1989)に開通。景雲とは、「めでたい雲」という意味があるのだそうです。
川面がますます大河の風格をみせてきます。
石上大橋が見えてきました。
石上大橋に着きます。
石上大橋 国道289号。三条新津線。昭和46年(1974)開通。443.0メートル。三条市と燕市を結んでいる。
次いで見えてきたのは鉄橋です。
信濃川橋りょう JR東日本・弥彦線の鉄橋。昭和60年(1985年)完成。
瑞雲橋がみえてきます。
瑞雲橋に到着です。
左岸側の河川敷にはかつて三条競馬場があったそうです。
瑞雲は「めでたい雲」ということでしょうが、由来は分かっていようです。
瑞雲橋 昭和33年(1958)に開通した。橋の完成で三条・燕との往来が容易になったという曰くつきで、さまざまな変化を生んだ架橋だったそうです。
古くは「津波目」と表記されたという燕市は金物の街。三条は三条鍛冶がルーツの金物の街。共に握手で「燕三条」!
燕市(つばめし) 「津」は港で「目」は中心地。波頭(水上)に見える多くの港の中で最も栄えたところという意味だといいます。港とは信濃川の河岸に多くあった船着場のことで、信濃川水運の中継基地として栄えそうです。
伝説では川上から流れてきて燕が群れていたことから見出された祠を建てた地とされますが、「燕」の一文字に置き換えられた時期や由来は明確には分かっていないようです。
かたや対岸の三条市。こちらも金物の街。いまは仲良く合わせて「燕三条」。
金物の街のルーツは江戸時代までさかのぼります。
そのあたりの歴史をみると、寛永2年(1625)から3年間を代官所の奉行として三条に赴任した大谷清兵衛という人があらわれます。
彼が河川の氾濫に苦しむ農民を救済するため、江戸から釘鍛冶職人を招き、農家の副業として和釘の製造法を指導・奨励したのが、そもそもの始まりとされています。
寛文元年(1661)ころになり、会津方面から鋸(のこぎり)、鉈(なた)などの新しい製造法が伝わると、製品も釘から鎌、鋸、包丁へと広がり、次第に専業鍛冶も誕生。
鍛冶専業者が増加し刃物類が大量に製造されるに伴い、金物専門の商人が生まれ、近接の地域から次第に県外へと商圏を広げていきました。
明治に入ると和釘の需要は減少しましたが三条は和釘づくりから大工道具、打刃物へと鍛冶の技術を昇華。対して燕は、和釘や鎚起銅器の技術を応用してキセルやヤスリ、洋食器と、産業を横に広げていくようになりました。
(参考 三条金物卸商組合「金物と草鞋」)から
三条、燕。どちらも寄り道したい街だが、市街地は川筋からはなれている。時間の都合で惜しみつつ通過せざるを得なかった。
燕と三条は似たもの同士で江戸時代から対立があったという。かの総理大臣・田中角栄(1918~1993年)もかつて手を焼いたほどだったといいます。
上越新幹線を通すことになった時、間を取って駅を市の境に造ることになったが、お互いがメンツを保とうとして話がまとまらなかった。
そこに角栄が登場。駅名を握手させ「燕三条」に、駅の所在地は「三条市」とする。その代わり、高速ICの名前は「三条燕」とし、所在地は「燕市」とする。こうして全体のバランスを取った折衷案でこの問題が収まった。という話が実しやかに語られているのだ。
三条大橋 国道8号。平成10年(1998)開通。463.0メートル。三条大橋の左岸にはかつて、三条競馬場がありました。
橋のさきは川沿いが公園で、尽きると五十嵐川にぶつかる。
大きな石碑が毅然とした形で立っています。
与謝野晶子歌碑
『くろ雲と越の大河の中に阿里 珊瑚の枝に似たる夕映え』
三条市を流れる五十嵐川の河口から信濃川の雄大な夕暮れの景観を眺めての歌といいます。
信濃川の川港が開けていたところ。往時は荷揚げの掛け声がにぎやかに飛び交ったことでしょう。
いわくあり気な標識がひょいと目にとまった。
山田三造脇小路 信濃川の川港に荷揚げされた品物を運ぶ道だったそう。いまは堤防へ抜ける道として利用されている。名称は小路の角に住んでいた人の名前にちなみ付けられたものという。
五十嵐川(いからしがわ) 三条市を流れる一級河川。信濃川の支流。濁らないで「いからし」と読む。
与謝野晶子はこのあたりに立ったのであろうか。
嵐山橋 「らんせんきょう」と読ませる。欄干に天狗が描かれています。
大地に溶け込んでいるような穏やかな流れ。
第1信濃川橋梁 燕市吉田。JR上越新幹線線の長岡駅~燕三条駅。昭和52年(1977)開通。447メートル。
信濃川橋 NEXCO東日本の北陸自動車道。栄スマートIC~三条燕ICの間。昭和50年(1975)開通。橋名が維持管理用では「栄橋」、土地占用許可標には「信濃川第1橋(栄橋)」とあります。
蒲原平野を滔々と流れる信濃川。その名もズバリ「蒲原大橋」と呼ばれる橋が見えてきます。
とはいえ、橋名板は「蒲原大堰管理橋」となっており、つまり「堰」。
国土交通省北陸地方整備局が管理を行う国土交通省直轄のダムである。
蒲原大堰(かんばらおおぜき) 昭和59年(1984)に完成。431.1メートル。中ノ口川水門で信濃川下流部の洪水調節と中ノ口川の流量を維持し田畑の灌漑用水供給を安定化させている。
信濃川と中ノ口川の三角州に蒲原大堰・中ノ口水門管理所があり、ゲートの調整を行っており、堰は魚道や船を通す閘門を備えたものになっているそうだ。
萬盛橋(ばんせいばし)で信濃川の対岸に渡ります。
萬盛橋 (ばんせいばし) 県道 分水栄(256号)線。昭和38年(1963)開通。108.0メートル。見るからに脆弱(きじゃく)そうな橋です。とみたら、やはり6tの荷重制限がありました。
橋を渡り大河津分水に向かいます。
何としても寄りたいところだ。
途中、さらにだが、やや下流にもどり、信濃川水害の最大を物語る「横田切れ」の地にも寄りたい。
場所は旧・西蒲原郡分水町横田。
明治29年7月22日。信濃川は豪雨により大増水し、横田の地で修理中の堤防が決壊し、大洪水を起こしました。その場所をみたい。
堤防の内側にも水田が広がり、その堤防はいまや300メートルほど先。
破堤個所は大河津分水から下流5キロメートルのところにあたります。
いまは穀倉地帯の水田がのどかに、果てないように広がっています。
のどかな田園地帯で越後の山々が望める。 左・彌彦山 右・三角山
ここで明治29年(1896)、堤防が決壊。信濃川、中ノ口川流域は浸水し、長岡から新潟まで、越後平野のほぼ全域が一面泥海となったという大水害。
公園一帯が「横田切れ」として語り継がれる信濃川大洪水の場所とされています。
大河津分水工事には住民の賛否両論があり両者がぶつかることもあった。だがこの大惨事により、分水路工事が一気に加速したという。「災い転じて福となす」となったとも語られています。
横田破堤記念碑 農林大臣 坂田英一書
記念碑
郷土豊穣の礎なり大河津分水/新潟県知事/平山郁夫書
ところで、歴史を遡っみると。
明治29年(1896)の時より大きい大水害が、宝暦7年(1757)におきているんですね。
それも5月3日から6月17日までの間に4回も破堤。その惨状、悲劇を瞽女さんが「くどき唄」として、後世に伝え残しているんです。宝暦の惨事を示すものは他に何も残っておらず、この「横田切れくどき」が伝えているだけなのだそうです。
以上のことは新潟県立文書館の公開情報で知りました。
と、すると。今日的な目から推断すると、明治29年の惨事は人災とも読めますね。
予定している残りの時間が少なくなってきた。
戻って大河津分水へと急ぎました。
水田はいま田植えの、真っ盛り。
「洗堰」の下流すぐに架かる朱色のアーチ橋がみえてます。
分水町にある「大河津分水」に向かう。
大河津分水路に到着。
越後平野を穀倉が実る豊穣の大地にした大河津分水!その蔭にひとりの土木技師がいた。青山 士(あおやま・あきら)だ!
「信濃川大河津資料館」の周辺には大河津分水ゆかりの石碑が15個ほどあります。
なかで、「信濃川補修工事竣功記念碑」にはドラマがあります。
巨費を投じて建設された大河津分水ですが、その大堰が梅雨の濁流で陥没し機能マヒに陥りました。完成からわずか5年後の大惨事でした。
当時、荒川放水路の開削工事の主任にあり成果をあげていた青山 士(あおやま・あきら)が最高責任者として抜擢され、早期再建が託されました。難工事でしたが4年後に竣工にこぎつけました。
その時の記念碑がこれ。「補修工事竣功記念」というのも異色で、版画家の棟方志功が感動したという曰く付きの石碑です。すべての碑文は青山 士によるもの。
青山 士(あきら) (1878年~ 1963年)
土木技師、内務技監、従三位、公益社団法人土木学会名誉会員、社団法人土木学会会長などを歴任。
クリスチャンで内村鑑三の門下、東京帝国大学工科大学卒業。パナマ運河建設に携わった唯一の 日本人として知られる。帰国後は内務省に入省。東京土木出張所時代に荒川放水路の建設を総指揮。また新潟土木出張所の所長として信濃川大河津分水路の改修工事を指揮した。
日本語と万国共通語であるエスペラント語で刻まれた珍しい碑文である。
(表面)
萬象ニ天意ヲ覺ル者ハ幸ナリ
FELICAJ ESTAS TIUJ, KIUJ VIDAS LA VOLON DE DIO EN NATURO.
信濃川補修工事誌
信濃川改修工事中同川ノ水量調節ノ爲新信濃川ヲ開鑿シ其流頭大河津ノ地ニ堰堤ヲ築キ總長約七二七米内右岸寄一八二米ヲ自在堰左岸寄五四五米ヲ固定堰トセリ本自在堰は實ニ本邦唯一ノ「ベヤトラップ」式堰堤タリシモノニシテ全長一八二米ヲ八個ノ徑間ニ分チ之ニ各「ベヤトラップ」式鋼扉ヲ備ヘ大正十一年八月新水路ニ通水シテ以来自在堰ノ起伏運轉圓滑ニシテ能ク分水工事所期ノ目的ヲ完フスルコトを得タリシカ超エテ昭和二年六月二十四日突如トシテ自在堰「ピーヤ」傾斜陥没の厄ニ遭ヒテ大河津ニ於ケル水量調節ヲ不能ニ陷ラシメタルカ故ニ直チニ自在堰應急工事ニ着手シ更ニ同年十二月工費四百四拾六萬圓の豫算ヲ以テ信濃川補修工事ヲ起工シテ爾來星霜四年激流ニ抗シ寒暑ト戰ヒ具サニ辛酸ヲ嘗メテ遂ニ其ノ竣成ヲ見ルニ至レリ即チ新可動堰ハ型式ヲ「ストーニー」式鋼扉ニ改メテ舊自在堰上流一〇〇米ノ位置ニ之ヲ築キ前車ノ覆轍ニ鑑ミテ基礎工事ニ萬全ヲ期シタルノミタラス河底ノ洗掘ヲ防止センカタメニ舊自在堰基礎ヲ補強改造シテ第一床固トシ更ニ新信濃川流末ノ岩盤ヲ固メテ第二床固を設ケタル外固定堰ニ對シテ充分ノ修理及補足工事ヲ施スヲ以テ本工事トシ別ニ大河津下流中之口川ニ至ル信濃川本川八粁ノ區間ニ附帶低水工事ヲ施行シテ水路ヲ改善シタルモノトス
昭和六年六月
内務省新潟土木出張所
(裏面)
人類ノ爲メ國ノ爲メ
POR HOMARO KAJ PATRUJO.
信濃川補修工事概要(略)
碑の銘文は青山士によるものだが、羅列された「主要工事關係者官」連盟のなかに、
「内務省新潟土木出張所長内務技師 青山 士」とみえるだけである。
青山 士の精神性を示しているのであろう。
東京都北区にある岩淵水門の碑もまたそうだ。「荒川改修工事ニ従ヘル者ニ依テ」とするだけで己を出していない。この碑を読んだとき胸がふるえた。
「此ノ工事ノ完成ニアタリ 多大ナル犠牲ト労役トヲ払ヒタル 我等ノ仲間ヲ記憶センカ為ニ 神武天皇紀元二千五百八十年 荒川改修工事ニ従ヘル者ニ依テ」
こうした人がいたことを我々はもっと認識し、もっと讃えるべきだろう。
👉青山士と岩淵水門と荒川放水路(後半)
青山 士の人と仕事についてはいい解説があります。👉「季刊大林」をお読みください。
大河津分水の工事の偉業を称えて植えられたソメイヨシノ。堤防沿いに咲き誇ります。
毎年4月第3日曜日。「つばめ桜まつり 分水おいらん道中」が開催されます。着飾った花魁(おいらん)が桜並木で道中絵巻を繰り広げます。
桜の季節にいちど訪れてみたいものだ。
大河津分水完工 60 周年記念碑 「大地に恵み人に安らぎ」と刻む。
分水というものが越後平野の大地に恵みをもたらし、人々に平安をもたらした。
信濃川大河津資料館 大河津分水がなぜできたか。その歴史と役割などがわかりやすく解説、展示されています。
「横田切れ」の掲示がひときわ目にとまります。
昭和6年(1931)4月22日、分水の可動堰が完成しました。
分水工事に従事した人は延べ1,000万人。殉死者84人、負傷者124人に上るといわれます。
そのころの日本の人口は4.400万人といいますから、いかに!が想像できますね。
そうした先人たちの尊い遺産とみるべきでしょう。
大正11年(1922)に通水し、越後平野の発展を支えてきた旧洗堰、ご苦労なこってす!「国登録文化財」となりました。
「旧洗堰」に足を踏み入れてみましょう。
旧洗堰の川底だったところは埋め立てられ大河津分水公園となっています。
人工の構造物なのに、何とも愛しいものに思え、その姿からは機能美さえ感じられます。
洗堰 新洗堰でそ。正式には「大河津洗堰」。ここで信濃川本川に流す水量をコントロールしてます。普段は生活水や灌漑用水を一定量流し続けています。その水量は1秒間で25メートルプールが満杯になる量だそうです。堰長:167.52メートル。(「信濃川大河津資料館」資料より)
本川橋(もとかわばし) 信濃川の洗堰に架かる県道・見附分水線の橋。3代目。長岡市中之島地域と燕市分水地域を結んでいる。平成12年(2000)架橋。185.0メートル。
目におさまる風景や踏みしめる大地もまた、大河津分水とその実現に携わった人々がもたらした大きな恵みであり、風景遺産なのである。
大河津分水の全長は分岐点から河口まで9.1キロメートル。
時間がないので今回は割愛することにし、季をあらためて歩いてみたい。そんな思いを流れに預けて分水をあとにした。
本川橋を渡ってからは、支流の猿橋川と信濃川にはさまれた堤防上の道をひたすら走った。
西の空が黄昏てきた。
途中で猿橋川が堤防からやや反れる。
長岡駅まで急がねばならない。
ひたすらチャリをこぎ、與板橋(よいたばし)に到着。本川橋から葯7キロあった。
與板橋 国道403号。長岡市並木新田(旧中之島町)と、同市与板町与板(旧与板町)との間に架かる橋。上流側に自転車歩行者道橋が併設されている。昭和40年(1965)架設。885.6メートル。
どんどん日が沈む。今回は與板橋までとして、次回は少しもどることになるが、ここ與板橋からスタートすることしよう。
そう決めてチャリをこぐ。
しばらく離れていた猿橋川が左手に並行するように流れる。
分刻みで薄闇が迫ってくる。
どんどん黄昏が迫ってくる。
正面の山は守門岳(すもんだけ)であろう。
信濃川橋が近いのだがもう黄昏のなか。
信濃川橋 NEXCO東日本北陸自動車道。長岡IC~中之島見附IC間。昭和53年(1978)開通。
すっかり黄昏た。
ライトが土手道を照らす。障害物もなく、実に快適な道だ。
信濃川橋の次に蔵王橋、長岡大橋といった区間を走りぬけ、大手大橋で長岡駅に向かった。
とっぷりと日暮れたなかのライト走行。チャリ頼みの暗夜行路だった。
長岡平野の夕日がフィナーレを彩ってくれた。
お天気ありがとう!と茜色の空を仰ぎみた。
本川橋からの走行距離は14,5キロほど。我が体力に感謝した。
チャリは月決めで長岡駅の駐輪場にしばらくお預け。
黄昏と競争で慌ただしい到着になったが、長岡駅から新幹線で無事に東京へもどることができた。