ポタリング紀行/日本一の大河367㎞をゆく~チャリ膝栗毛~信濃川・千曲川源流遡行 (1)-1
今回の歩みは、
信濃川河口~関屋分水~酒屋
その日、ゴールデンウイーク3連休の中日。新潟は快晴だった。
何年ぶりになるだろう。
やはりここから北へ旅立ったことがあった。(「日本奥地紀行」の旅)
そのスタイルは、チャリ(ママチャリ)と徒歩、称して「チャリ徒歩」。
イザベラ・バードの徒歩と馬上旅行を真似たものだった。つまり馬をチャリにかえた。
このチャリ徒歩のコンビネーションが気に入ったので以後いろいろとやり、今回もそれに倣った。
老体化が進みつつある体にはほどよくマッチする!
で、タイトルは「チャリ膝栗毛」とした。
*なお、今日的に補足すると、自転車によるのんびりしたツーリングを「ポタリング」と呼ぶのだそうだ。で、このたびの旅はそれに当てはまるようなので、タイトルの頭に「ポタリング紀行」と付けてみた。
そのとき求めた新潟市内のサイクルショップで今回も同型の超安価(盗難に遭っても悔いない)な自転車を購入した。
価格は当時とそう変わりはないようだ。
武骨で軽快さや飾り気はどこにもない。実にシンプル。
ガタイのがっしりした中国製(夏の日盛り1ケ月ほど連続で乗り回してもパンクひとつしなかった)。頑丈そのもの!恐ろしいや中国製!(自転車は旅が達成された段階でだいたい他人に譲渡)
旅のお伴はこの自転車!今回の旅は我呼んで「チャリ膝栗毛」とした。
新潟駅 駅前はどんどん変わってゆくから、いまはどうなんだろう。
新潟駅からほど近いところを信濃川が日本海へと流れている。
そういう河口風景のどこをこの度の出発点にしょうか、地図をみていろいろと迷った。
新潟駅から河口付近まで川沿いをうろうろとさまよい歩いたものの、ここと言ってうなづけるところがなかった。
どこも雑としているので新潟みなとトンネルで対岸にぬけた。
新潟みなとトンネル 一番低い所で路面の高さが水面下24メートルだそうだから、つまり海底歩きだ。
海に出る直前、中央区海辺町(新潟島)と対岸の東区臨海町を結ぶこの海底トンネルには人道(自転車歩行者道)が備えられている。
正式名は新潟港臨港道路入舟臨港線、総延長3260メートル。
河口をはさんで建つ「入船みなとタワー」、「山の下みなとタワー」は、共に海底(川底)トンネルの換気塔になっている。
抜けたものの、やはり周囲は茫々としている。
どの川もそうだが、河口というものにすっきりしたところはないようだ。
どこの河口もどこかしら渺渺(びょうびょう)としたところがある。
一帯はまるで果て無き荒野のようだ。
河口が一望できるところはどこかにないか。
なおもしばらく上流へと歩いた。
日本で最も長い川・大河の流れが日本海に溶け込む、その信濃川の河口に立つ!
するとあった。
ようやくにして、ここでいいだろうと思えるポイントを見つけた。
茫々として海か川か果ては湖水か定めきれないような風景の広がるところ。
そこは船見町の川沿い、港湾事務所裏あたりの岸壁。
信濃川水系の水は367kmの旅を経て、ここで信濃川の河口から日本海に流れ込む。
その河口の右岸に立った。感無量だ。
ここから信濃川を遡上することにする。
老境の体でも覇気だけは全身に沸々と漲っていた。
*右岸・左岸 川の両岸の呼び名だが、正しいところをここで理解してみたい。
河川用語では、河川を上流から下流に向かって眺めた時、右側を右岸、左側を左岸と呼ぶ習わしになっている。
河口は新潟港(西港)になっていて、佐渡汽船や新日本海フェリーの旅客船、貨物船、漁船などが頻繁に出入りしている。
小学六年生の遠い記憶が、いま郷愁となってわが身をかきたてる!
こんどの、この、遡行を思い立ったそもそものひとつがここで果たせた。
それは小学校6年生の時のことだった。担任の広田先生が、
何かの折にだった。
「住んでる近くに信濃川が流れています」
と、わたしが言うと、
「その信濃川は新潟の河口で日本海に流れ込んでいるんだ」
といったことを即座に教えてくれた。
「知ってるか?」
「ひえーそうなんだ!」
いつか、その河口とやらに行ってみたいな。
川の発する源はどんなんだろう。そこにも行ってみたいものだ。
少年のわたしは素朴にそんなことを思った。
それ以来、ずっとそれはわたしの心密かな宿望になっていた。
だが、人生という流れの中で、いつしか忘却の片隅に流されてしまっていた。
それがいまここで現実のものとなったのだ。
思えば、振り返れば長い歳月が横たわる。眼がしらがじわ~っと熱くなった。
広田先生の顔が浮かんだ。あのとき先生はおいくつだったのだろう。
声もはっきり覚えている。
いまもご壮健というわけにはゆかないだろうな。
ドイツ語というものを初めて教えてくれたのも広田先生だった。で、大学ではドイツ語を受講した。
先生は懐かしさのなかでやさしく微笑んでくれた。
さあ、歩き出そう。ひたすら前進、奮闘し努力するだけだ!
信濃川・千曲川 左岸から旅の一歩を踏みし出した!その日、源流まで行く決意の一歩とした!
ご存じとおもうが、信濃川は長野県では千曲川と呼ばれている。信越にまたがり、総延長367km。
そのうち千曲川と呼ばれる部分214km。残りが信濃川。
歩き出してすぐに見えてきたのは遠目にもどっしりとしたクラシックな建物。
右手にそれが。みなとぴあ・新潟歴史博物館だ。左手の高層ビルは万代島に立つ朱鷺メッセ。
新潟歴史博物館・「みなとぴあ」と旧新潟税関庁舎(国指定史跡・重要文化財)で新潟港開港の歴史をみる
西堀通六番町(西堀交差点角)に所在した、二代目新潟市庁舎の外観をモチーフに建設された建物という。
新潟西港 に面するロケーションから、みなと(港)とユートピア(理想郷)をつないだ造語で、「みなとぴ」は愛称。昭和47年(1972)4月に「新潟市郷土資料館」として開館した。
イザベラ・バードの調べものでこれまで何度か寄っている。
残念ながらバードは既にあった税関庁舎によっていない。寄る必要がなかったからだが、新潟を去るとき船の中から目にしたかもしれない。
旧新潟税関庁舎
明治2年(1869)8月21日に上棟、10月に完成。
幕末の開港5港のうち、当時の税関として現存する唯一の建物。地元の大工が西洋建築を見よう見まねで造った「擬洋風建築」。
老朽化のため、昭和45年(1970)から2年間にわたって解体修理され、塔屋とナマコ壁をもつ創建時の姿に修復された。平成30(2018)年に耐震補強工事も実施され、昭和44年(1969)には国の文化財に指定された。
*開港五港と「新潟運上所」(税関)
幕末の安政5(1858)年、徳川幕府はアメリカ・オランダ・イギリス・ロシア・フランスの五か国と修好通商条約を結び、新潟・横浜・函館・長崎・神戸の五港を開港することにしました。
しかし、開港が実現しないまま幕府は崩壊しました。
受け継いだ明治新政府が新潟港を開港したのは明治元年11月19日(西暦1869年1月1日)のことでした。
幕末、外国との貿易に際し、開港場には輸出入貨物の監督や税金の徴収といった運上業務や、外交事務を取り扱う「運上所」(うんじょうしょ)が設けられました。
信濃川の河口近くのヨシが生い茂る川岸を埋め立て建設されたといいます。
庁舎は、地元・新潟の大工たちが、一足先に開港した横浜などに建てられていた洋風建築を参考にして造ったもので、明治2年(1869)年8月21日に上棟、10月に完成しました。
「新潟運上所」は、明治6年(1873)に「新潟税関」と改称され、昭和41(1966)年までの約100年間、税関業務に使用されてきました。
同じエリアに昭和57年(1982)、旧新潟税関石庫(いしぐら)も復元されました。
*石庫 税関に持ち込まれた品物を行き先が決まるまでの間保管する保税倉庫です。明治2年(1869)に建てられ、老朽化が進んだため、初代の建物は昭和38年(1963)に解体されました。
現在の建物は、昭和57年(1982)に復原されたもので、木造ですが、防火のために外壁に石が張られていることから「石庫(いしぐら)」と呼ばれています。明治2年当時には、石庫と並んで土蔵もありましたが、今は残っていません。
~短い間隔を置いて軽い橋がかけてあり、運河は新潟の非常に魅力ある特色となっている。~(『日本奥地紀行』から)英国の淑女イザベラ・バードも絶賛した新潟の街の運河(人口堀)
古い新潟の街は縦横に人工堀が通じていました。
明治11年(1878)、新潟を訪れた英国女性のイザベラ・バードもその光景をつぶさに記しています。そのいくつかをここに。「運河」と呼ぶ堀の賑わいが彷彿とします。
私たちは運河の中を棹で船を進めていった。町の数多くの運河は、産物や製品を運搬する通路となっていて、その何百という荷船の間を通って、町の真ん中に上陸した。
私は町の中で駄馬を見たことはない。すべてが舟で運ばれてくる。品物を戸口近くまで運河で運びこむことのできない家は、この町にはほとんどない。
川縁には木が並んでおり、その中にはしだれ柳が多い。
短い間隔を置いて軽い橋がかけてあり、運河は新潟の非常に魅力ある特色となっている。
『日本奥地紀行』平凡社 日本高梨謙吉訳
等々、ほかにも新潟の記述は盛だくさんです。👉興味あるかたは本編のほうでどうぞ!
明治6年(1873)創業の第四銀行。北越銀行と経営統合し、いまは「第四北越銀行」と呼ばれています!
その旧第四銀行住吉町支店がここに」移築されてます。
昭和時代の初期、全国で見られた新古典主義様式の銀行建築。昭和2年(1927)10月に竣工した第四銀行住吉町支店でしたが、平成15年(2003)にみなとぴあ敷地内へ移築。
鉄筋コンクリート造2階建て(一部3階建)で、設計者は新潟市市出身で新潟市公会堂などを手がけた建築家・長谷川龍雄。
花崗岩の外壁、中央正面には特徴的な古代ギリシア建築風のイオニア式列柱が並んでいます。館内で目を引くのは吹き抜けになった営業室。大理石のカウンターに、天井の漆喰。
会議室の板壁には、高級輸入木材であるラワン材を使用、歴史的価値も大で、国の登録有形文化財になっています。その時は1階にはレストランが入っていましたが、いまはどうなっているのでしょう。
歴史博物館の整備に際し、荷揚げ場の石積なども資料をもとに復元されました。
新潟のシンボルタワーの朱鷺メッセが大きく迫り、柳都大橋が近づいてきます。
朱鷺(とき)メッセ
新潟コンベンションセンター(にいがたコンベンションセンター)と万代島ビル(ばんだいじまビル)の2棟によって構成されている。平成14年(2002)、平成15年(2003)3月にそれぞれ竣工し、同年5月1日に全面開業した。デザインは槇文彦。
振り返れば河口はもう遙か。
港町らしいプロムナード!
橋が見えてきました。
柳都大橋 河口から最初の橋である「柳都大橋」を通過しました。
柳都大橋は長さ212.1メートル。平成14年(2002)5月の開通。
50メートルほどの先に万代橋も見えてきます。
河口から2番目の橋 「萬代橋」を通過。
名橋・万代橋
新潟といえばこの名橋!万代橋。現在の橋は3代目。RC造六連アーチを持つ全長306,9mの橋です。
昭和4年(1929)の完成。かの新潟地震(S39)を耐えた強固な橋。
平成16年(2004)に国の重要文化財に指定されました。
新潟の街が萬(よろず)発展することを願って「萬代橋」と名づけられた初代の萬代橋は、明治19年(1886)に開通。で、次が古写真にある二代目の橋。
駅前に古い「萬代橋」を報せるパネルがあった。
新潟市は、信濃川左岸の古き新潟(西新潟)と、右岸の沼垂(東新潟)とに分かれていた。
右岸を河口に向かうとき旧沼垂町を通る。
沼垂(ぬったり) 渟足柵(ぬたりのき)の遺称とされる。平安期からある地名で、江戸時代には沼垂町と称された。大化3年(647)渟足柵(城柵)が開かれ、大和朝廷の東北(蝦夷)侵攻の前進基地となっていた。場所としては東区内にあたる旧沼垂に相応するらしい。
川には橋がつきものだ。その橋をぜったい撮ることにしよう。
プロのカメラマンでもないから、ありきたりのカメラアングルになるだろう。が、ともかく橋の姿を旅の基本にすえて遡上を試みたい。
川の魅力は近寄ってこそなのだが、地図を俯瞰するとそうも行かないところも多々あるようだ。
それでも、できるだけ川面の見える限りで遡ることにしよう。
これらを旅のベースにした。
砂丘地帯に開かれた、江戸時代から続く新潟の繁華街・夕暮れどきの古町通りを散歩
夕暮れて古町通りを散歩。
地方の街はどこも、夕暮れすぎるとお店がみな閉まってしまうんですね。
一局集中の末端のしわ寄せ状況ともいえるでしょう。
新潟駅が駅ビルを含め大きくタウン化され、様がわりするらしい。
そんな煽りをくらってほしくない。どうか寂れないでほしい、古町、と祈るばかりだ。
古町らしいアーケード。
1950年代まで新潟島の中心部には堀が張り巡らされ、それに沿って柳が植えられていたことから「水の都」、「柳都(りゅうと)」とも呼ばれていました。いま堀は埋められ、市民の道路となっています。
本州日本海側では最大規模の都市である新潟市は、古くから港とともに栄え、幕末の日米修好通商条約開港五港の一つとなりました。
現在でも水陸の交通の要衝であり、平成19年(2007)4月1日、本州日本海側初の政令指定都市に移行をしました。
アーケードのおわり。
古町通りを抜けると正面に白山神社。新潟の鎮守。
通りに立つ『新潟市街角歴史案内板』というものに写真パネルがあった。
元和2年(1656)長岡藩主・堀直寄が、河口左岸に「新潟島村」を開いたことに始まり、次いで中州に本町、新町、片町などの通りがつくられ、さらに明暦元年(1655)に東堀・西堀・一番堀・二番堀。三番堀など掘られた。
古町 名の通り新潟の町の歴史はここから始まった。江戸時代初期まで本町と呼ばれていました。古町の6番は、旅籠、古町7番は塗り物、紙の専門店街だったそうです。
明治17年(1884)3階建ての勧商場(デパート)などが出来、明治22年(1889)市制施行後、古町は賑やかな商店街として発展しました。
北陸有数の商店街と成長し、近在はもちろん、遠くの町から来た人たちで賑わいました。
この日は新潟駅前近くのホテルに泊まれたのだが、日頃の神通力が通じなかった。
情けない顛末でした。
ゴールデンウイークだとて一人ぐらいどうにかなるだろうと、高をくくっていたら、どこのホテルも満室だと断られ、執念深く電話をかけまくり、何んとかキャンセルが出たところで、割高の部屋を確保できたわけ。てんてこ舞いでやれやれでした。
ゴールデンウイークと何某かの全国大会が重なったせいらしが、それにしてもだ、とボヤいて寝た。
という始末だったのですが、翌日はそれがもっとほんとうのことになった。
どこに埋もれているのか、幻の『信濃川紀行』。そこに書き記された明治という時代の信濃川の船運と源流への旅!
翌日はどうしても訪れたかった「おもち屋」へ赴いた。
今回の旅を約束させた端緒のふたつ目がここにある。
西堀通と鍛冶小路が交差する角に杵のマークを飾り付けた古風な商店があります。
押します!推薦します!明治16年創業、新潟名物笹団子の老舗・笹川餅屋 断然の逸品です!
少し長くなるが、そのいきさつを語ってみよう。
それは一冊の本、『母なる信濃川』にはじまるものだった。
毎日新聞新潟支局がまとめたものだ。
昭和45年(1970)の発行になっている。だいぶまえに都内の古本屋で買い求めたもの。
その中に紹介されていた。明治初期に書かれた『信濃川紀行』というもの。
明治の時代に信濃川の流域を踏査した人がいたということに、まず驚いた。
信濃川を全踏査した記録を毛筆により手書きでまとめた書物というのも異色。
その踏査の旅のあらましを記者がかいつまんで数ページにまとめていた。それを読んだ。
個人的に作ったもので、二冊しか作られなかったという記述の内容からみて、世に二冊しかないもの。
そのうちの一冊を笹川さんが所有していたのだ。市内の古書店で手に入れたものらしい。
ぜひそれをお借りして読んでみたい。
できるなら彼らふたりの踏んだ信濃川のルートを歩いてみたい。
そんな思いが沸々と湧いた。
土木技師らしきふたりが遡上した当時の信濃川はどんなであったろう。
ところどころで当時まだ盛んだった船を使っと書かれていた。
興味津々。早く読んでみたくてたまらなかった
笹屋のご主人・笹川勇吉氏は市内でも有名な笹団子の老舗で、片や古書や古写真、絵葉書などのコレクターとしてもつとに知られていた。
一度は連絡をとり、お会いしたいと願っているうちにたちまち時は過ぎ、本腰を入れて問い合わせたところ、すでに他界されたという。よもやのことで、あわてふためいた。
遺族によるともろもろのものはすべて処分したという。
とすると、あわや、散逸か。と思ったのだが、コレクションの総ては博物館に寄贈されたとのこと。
そこで、何んとかホット安堵した。
ならばすぐに見つかるだろうと踏んでいたのだが、あろうことか、どうにもこうにも見つからないまま今日に至っている。どこに、どう逼塞しているのやら。
そんなことから『信濃川紀行』の原本そのものに相まみえることなく、この旅をはじめることになってしまった。
見つかるのを待っていたらこちらの体が期限切れになってしまう。
そんなことで、それは、いまのところわたしにとっては幻の『信濃川紀行』にとどまっている。
いつか、何んとか発掘して読んでみたいと願っている。
ヒット曲に歌われた万代橋。
昭和40年代。ブルース流行のころに生まれた『新潟ブルース』。ご当地ソングの名曲。その歌碑がある。
「信濃川ブルース」の歌碑
萬代橋を渡って西詰「ホテルオークラ新潟」の向かい側のビルの1階に建てられている。新潟市制100周年を記念して建てられたもの。
美川憲一、コーラスグループ・黒沢明とロスプリモスの競作で昭和42年(1967)10月に発売された。
美川憲一の方はA面が「新潟ブルース」、B面が「信濃川慕情」。一方、ロスプリモスの方は、A面が「信濃川慕情」、B面が「新潟ブルース」。どちらも作詞・山岸一二三、作曲・山岸英雄。二人は兄弟でした。
二人は新潟の出身だそうで、新潟駅、萬代橋、古町通など新潟の情景を歌詞に織り込ませたのは、さすがご当地出のふたり。
1 想い出の夜は 霧が深かった
今日も霧がふる 万代(ばんだい)橋よ
別れの前に 抱きしめた
小さな肩よ ああ…
新潟は 新潟は 面影の街
2 しあわせの夜を 二人過ごしたね
いつかより添った 古町通り
ほのかに白い 指先で
涙をふいた ああ…
想い出の 想い出の 新潟の女(ひと)
3 忘られなくて ひとりさまよえば
青い灯がゆれる 新潟駅よ
愛した訳じゃ ないんだと
強がりいえば ああ…
新潟は 新潟は 霧に更けてゆく
信濃川を横目に、広々としたフィールドをゆきます。どこもかしこも、素通りするのがもったいないくらい。
やすらぎ堤 緩やかな親水型の築堤。信濃川水門から萬代橋までの延長約4.5 キロメートルの両岸。洪水対策で築かれたもので、勾配を緩やかにした堤防と幅広い河川敷で整備されている。
高さは平均で約2m、幅は広い箇所で約15m。市民の憩いの場となっている。
春になると川沿いが一面桜で埋め尽くされるそうです。
八千代橋 「八千代橋」を通過しました。 307.4メートル。昭和37年(1962年)開通。市道新潟鳥屋野線。
近辺にはいろいろなモニュメントがある。
新潟市とハバロフスク市は、昭和40年(1965)4月23日に姉妹都市提携しました。.
こちらは、その記念碑。
ハバロスクのマークはそれとわかるけど、新潟はわかりいくい。創案が飛躍しすぎですね。
「安政五年通商条約」により指定された五港の一つ新潟をあらわしているのだそうだが。う~ん、けどどうもわからない。
この彫刻は何ー。樹木を抱きかかえる二人の青年。ジャウマ・プレンサ(巣ペイン)という人の作品。
銅で鋳造。体には世界中の音楽家の名前が浮き彫りされています。木が大きくなった時が見ものだ。
昭和大橋 県道 白山停車場女池(164号)線。昭和39年(1964)開通。303.9メートル。
6月1日に開通した直後の6月16日、新潟地震(M7.5)による液状化で5スパンが落橋、通行不能となる。現在の橋は3代目。
昭和大橋を過ぎると信濃川は少し左にカーブする。
信濃川橋梁
JR越後線「信濃川橋りょう」を通過します。JR東日本、越後線。290メートル。
川向うのタワーはなんだろう。
白山下水道橋
白山下水道橋 昭和59年(1984年)3月完成。283.5メートル。
千歳大橋 国道116号、289号。県道新潟亀田内野線が重複。昭和60年(1985年)開通。平成 6年(1994)2車線が開通。291.7メートル。
本川大橋 「本川(ほんせん)大橋」の横を通ります。本川大橋は122メートル。昭和57.年(1982)開通。関屋分水の水門があります。
大橋を過ぎると「関屋分水」になります。
信濃川水門 中央区関南町 昭和50年(1975年) 5径間鋼鈑桁 L=122m W=12.8m 潟市の治水対策で関屋分水路に増水した水を流すための信濃川水門に併設された橋
関屋分水路
信濃川からわかれる関屋分水に沿って河口まで下ってみました。
関屋大橋から河口の新潟大堰まで片道1,34キロメートルほど。
関屋大橋 278.7メートル。昭和46年(1971)開通。新潟大堰橋からここまでが関屋分水路です。 県道 新潟亀田内野(16号)線 。
*関屋分水路 信濃川の流量を減らすべく、関屋地区を経て新潟砂丘を貫き日本海に注ぐ分水路で、全長約1.8 km、1972年(昭和47年)8月10日に通水した。
新潟市の洪水防止、流水調整を主な目的に昭和39年から47年にかけて長さ1.8キロメートルを掘削、移転家屋は693戸に及んだという。
関屋分水橋りょう(せきやぶんすいきょうりょう)
JR東日本の越後線。昭和45年(1971)開通。柏崎市の柏崎駅~新潟市新潟駅を結ぶ84キロメートルの路線。
有明大橋 市道 曽和インター信濃町線。昭和45年(1970)開通。252.1メートル。別名、西大通り。
堀割橋 建設当時は主要地方道新潟寺泊柏崎線、次いで国道402号、新潟市道文京町五十嵐二の町線と変遷。 昭和45年(1971)開通。222.4メートル。
浜浦橋 国道402号 。新潟海岸バイパスへ接続。別名・日本海夕日ライン。 昭和45年(1971)開通。228.6メートル。
新潟大堰橋 (にいがたおおせぎばし)新潟市道西1-94号線。西区関屋ー中央区浜浦 。昭和46年(1972)開通。242.7メートル。
信濃川下流河川事務所ホームページ: http://www.hrr.mlit.go.jp/shinage/
うっすらと見えるのは佐渡島。
関分記念公園(せきぶんきねんこうえん)
関屋2番地にある都市公園。関屋分水の建設を記念して関屋分水路の河口付近に設置された。
展望台の向こう側は日本海です。
往復で2,68キロでした。関屋分水の散歩をおえ再び信濃川の本流にもどりました!
左岸をゆきます。
まず見えた橋は平成大橋。
平成大橋 国道 116号、289号重複。平成4年(1992)開通。289.8メートル。
旧橋名で「帝石橋」。その標示がある。ガス、石油の採掘を行っていた「帝国石油(株)」のビルがこの付近にあったゆえという。
新潟大橋 新潟バイパス。330.0メートル。昭和52.年(1977)開通。
上越新幹線鉄橋 上越新幹線「第2信濃川橋りょう」。JR東日本の上越新幹線。燕三条駅~新潟駅間。昭和49年(1974)開通。429メートル。
北陸自動車道が新潟平野のど真ん中を貫通しています。
ときめき橋 北陸自動車道。372.0メートル。平成6年(1994)開通。
右手にお花畑が見えてきました。チューリップのようです。
新潟ふるさと村 ここは県下最大級の道の駅。敷地内にチューリップガーデンがあります。
色とりどり50,000本のチューリップが咲くのだそうです。開花時期は4月中旬~4月下旬。
チューリップは新潟の県花だ。
しばし休んだのちふるさと村を出発。
大きな分流が望まれます。中ノ口川のようです。
中ノ口川(なかのくちがわ) 三条市尾崎で信濃川から分流し、新潟市西区善久で信濃川に合流する。中之口川と表記されることもあるが河川法上の表記は中ノ口川。
直江兼続が河道を整備したという伝説が残っている。 江戸時代より信濃川とともに舟運が発達し、沿川の燕、白根、大野などは河岸場町として大いに賑わった。
さらに行くと小さな川ですが大通川があり、そこに水門がある。
鷲ノ木水門 ここは旧白根市。信濃川と中ノ口川に挟まれた鷲ノ木大通川に設けられています。この辺はゼロメートル地帯。新潟は低地が多いので本流から支流に水が逆流しないように排水機場と水門がやたらと多いです。
周りは牧歌的。
信濃川大橋 県道 新潟寺泊(2号)線。昭和43年(1968)開通。617.95メートル。
信濃川、中ノ口川の合流点に架かる。右岸側の江南区天野と、中州の南区鷲ノ木新田を挟んで、左岸側の西区鳥原とを結ぶ。信濃川と中ノ口川の2河川を一気に横断する市内随一の長大な橋。
このあたりは、ゆっくりのんびりチャリを走らせて。
ちなみに、信濃川大橋を過ぎると、次の大郷橋迄、6キロ半ほど信濃川に橋がない。
チャリで走るには格好のコースだ。
ここはチャリで走ろう。サイクリング、サイクリング。ヤッホウ~、ヤッホウ。川風をきって気持ちがいい。
河川敷も広い。
目も眩むような直線。
時として川は暴れます。ここでも大洪水をもたらしました。
そんなことを物語る石碑がありました。
曽川(そがわ)切れ記念碑 大正6年(1917年)に発生した信濃川の大洪水。
10月2日の未明。連日の大雨で信濃川の川水は増水し、曽川水門で補修工事を行ってい。その場所から堤防が決壊しました。
約200メートルにわたって破堤し、たちまち亀田郷内は泥の海と化しました。
切れた土手の土留め工事はなかなか進まず、広い地域が長期にわたって水浸しとなり、農作物などに甚大な被害をもたらしました。
*曽川 江戸時代から明治22年(1889)まであった曽川村の一部。
亀田郷 越後平野を流れる信濃川、阿賀野川とその支流である小阿賀野川に囲まれた地域を指していう。古くは横越島といわれ、大正時代から亀田郷と呼ばれるようになった。鳥屋野潟を中心に約11キロメートル四方、約10,000haにも及ぶ広大なエリア。
新潟平野の下流付近にあたる「亀田郷」は、腰よりも深く水に浸かる「深田」で農作業をしていました。その上に水害が度重なるという大変な土地でした。これは、戦後しばらくしてもそうでした。
司馬遼太郎は「街道を行く~潟のみち」の冒頭の一節でいいました。
「農業といういうものは、
日本のある地方にとって死に物狂いの仕事の連続であったように思える」
左下に赤い鳥居がみえます。
信濃川の氾濫を受けたこともあろう、旧曽川村の産土神。祭神は健御名方命。大正2年(1913),村内の神明宮(豊受大神)が合併されているそう。
家屋は土手道路よりだいぶ低いところにある。川が溢れたらひとなめだろう。
惨事があったとはおもえない明るい風景がひろがる。
かつて未曾有の大洪水があったことなど、風景は何も語らない。こちらから、歴史に歩み寄るしかない。
いくらか大きな街並みに入ります。
酒屋(さかや)という町です。
かつての酒屋河岸にさしかかります。
酒屋は阿賀野川・小阿賀野川の水上交通における合流拠点で、舟運の船着場として繁栄し、材木の一大集積地となって豪商が活躍しました。
鶴亀橋 小阿賀野川に架かっていた旧亀鶴橋の遺構。
酒屋にはイザベラバードの『日本奥地紀行』追っかけ旅で訪れている。あれから何年経つだろう。
かわらない風景が懐かし。
敬覚寺 学童疎開(がくどうそかい)の寄宿舎となった寺のひとつ。
太平洋戦争末期、昭和19年(1944)7月、国は国民学校の児童を農山村地域に集団的または個人的に移動させました。
旧亀田町には圓満寺ほか3ケ寺に児童1 9 1名が、旧両川村酒屋の本敬寺43名、西養寺46名、敬覚寺45名の1 3 4名が収容されました。
*疎開 軍事用語であったが、第二次世界大戦末期に、攻撃目標となりやすい都市に住む学童、老人、女性、又は直接攻撃目標となるような産業などを分散させ、田舎に避難させるという政策を指す言葉として一般化した
ウィキペディア(Wikipedia)
疎開児童たちも遊び場にしただろう神社の広い境内。
*イザベラ・バードと『日本奥地紀行』
明治11年(1878)、47歳のバードは日本への大旅行を決行しました。
5月に上陸し、北日本の踏査後は、関西方面へも旅行するなど、12月にわたり滞在しました。
その旅の記録が『日本奥地紀行』です。
7月1日に津川に入り、翌々日の3日に津川の川湊から阿賀野川~小阿賀野川~酒屋~新潟迄を船で下りました。一週間ほど滞在した後の7月10日。通船川(当時は新川)を船で通って、中条・胎内、十三峠、そして東北から旅の目的地である奥地の北海道を目指しました。
その旅をある日、決して追っかけました。その記録がその後『日本奥地紀行』を歩くという一冊になりました。
両川村 明治34年(1901)酒屋村は、中蒲原郡割野村、嘉瀬村、和舞村と合併し、両川村となり消滅。大字酒屋となる。両川村成立時に付けられた新しい呼称で、当時の公文書には「フタカハ」と振り仮名がつけられていたといいます。2つの川(信濃川・小阿賀野川)ということでしょう
酒屋の陣屋通り 昔は信濃川と小阿賀野川のまじ合う舟運の要衝で、河岸場として栄え、大変賑やかな町だったそう。
慶応元年(1864年)、会津藩領となった酒屋村には、慶応3年(1867)、水原にあった陣屋がこの地に移されました。
翌、慶応4年(1868)。戊辰の役が始まると、越後、奥羽諸藩がこの陣屋に集まり八日間会議、いわゆる「酒屋会談」が行われました。
*小須戸線 通称は小須戸線(こすどせん)。新潟県新潟市中央区から三条市に至る主要地方道(新潟県道)である。
小阿賀野川 信濃川と阿賀野川の間を流れる全長11kmの河川。小阿賀野は阿賀野川よりも水位が低い。1750年代に新発田藩が阿賀野川と信濃川を結ぶ要路として、支川を拡幅改修してつくられたといわれている。
津川船道(つがわふなどう)と呼ばれる津川を拠点とする水運業者が、阿賀野川と信濃川沿線の町々を結ぶ際に用いていたという。
土手は整備されサイクリングコースになっている。
信濃川(上側)と小阿賀野川(下側)が交わる。
船道(ふなどう) ここで船道と呼ばれた川輸送の背景を簡単にまとめておこう。
荷船用の専用船を持つ商人たちは、公の役人を運んだり藩業務を引き受けたりする見返りとして、川輸送の特権を与えられていました。
船道には、長岡藩が公認した長岡船道・蒲原船道、会津藩公認の津川船道、新発田藩が組織した沼垂船道(沼垂船統)などがあったといいます。
また長岡より上流の信濃川筋には妻有船道(つまりふなどう)という枝船道もあり、長岡船道と結ばれていました。
その他に河岸場から河岸場へ小荷物を運ぶ輸送業者の組織もあって、川ごとに「~通船」と呼ばれたといいます。
さきの『信濃川紀行』の筆者二人も、船道を往来する船を使って信濃川を遡上したと記しているようです。
さて夕暮れてきた。
今夜の泊は亀田市街のホテル(コンフォートイン新潟亀田)と決めていた。亀田駅まで6キロ少々。踏ん張ってチャリを走らせた。
かつての亀田郷はいまは新潟市江南区。
いよいよ日没。
越後平野の落日だ。
なんとも荘厳で神々しい。
亀田郷 信濃川と阿賀野川。2川と小阿賀野川に囲まれた一帯は亀田郷の中心。低湿地で湿田に悩まされ、浸水被害の常習地、いうなればゼロメートル地帯でした。
よく語られるのは、一歩足を踏み入れると胸までつかる泥田だったこと。その泥田を、人々は『芦沼』と呼んだ。田んぼには舟で移動。苗や稲を運ぶのも舟だった。
水田は湖と見まごうばかりで、腰まで水に浸かっての田植え、田舟を押しての稲刈りなど過酷な農作業の連続だったという。
湿田を乾田にの悲願。その積重ねられてきた努力が実り、美田に生まれ変わり、農業生産が飛躍的に向上したという。
こんな美しい夕日の過去に農民が水と戦う壮絶な歴史があったのだ。
一部屋ぐらいどうにかなるだろうと踏んで到着したものの、それがなんともならない。
満室だという。こんな観光地でもない辺鄙なホテルまで、満室とは、どうして。
そう問うと、ホテルのマネージャーが即答してくれた。
「みなさん駐車場がわりにお泊りになる」のだそう。
深夜の駐車場料金が高いから、それならホテルで、ということになるのだとか。
う~ん、そうなのか、そいうこともあるんだ。ひとまず納得。
かといって、いまさらチャリを飛ばして他を探すわけにはゆかない。
さすがに極まった。さて、どうすべきか。
マネージャーがいうに、朝方まで過ごすには、カラオケ喫茶かネットカフェしかないと。憐れげに諭された。
そこで、腹をくくった。飯を喰うことにした。コシヒカリの竈焚き。これがうまい!ここでなんとか元気をとりもどした。
仕方ない。居直るしかない。今夜の宿りは深夜営業のカラオケ喫茶とした。
カラオケ嫌いじゃないけど、毛頭、歌う気になれない。
狭い空間の部屋に音楽が夜通し流れる。停めることができない規約とか。やかましくて、眠れやしない。
一睡もできず夜を明かしたことはいうまでもない。
美食にちょうどいい食べ切サイズ!魚沼米こしひかりの醍醐味1「食べらっしゃい」
*「食べらっしゃい」 越後の方言