信越奥地の秘境・秋山郷(1)
鈴木牧之の『秋山記行』(一)を歩く
牧之と案内人の桶屋團蔵は秋山郷へ向け塩沢をたつ
ー塩沢宿~上野~十二峠~田代~見玉ー
『秋山記行』の原文は「発端」の、
「今年文政十ヲ餘一の菊月初のㇵ日、ふ圖(と)能き案内あるを幸いに、年頃日ごろの念晴さばやと、信越の境、秋山遊歴に筇(つえ)を曳かんと思ひ立侍りぬ。」
(原文は『秋山記行・夜職草』(平凡社・東洋文庫)引用しています)
ではじまります。
つまり、その旅は文政11年(1828)9月8日(新暦10月18日)のことで.帰着は9月14日でした。牧之,、数え五十九歳の秋のことでした。
有名な『北越雪譜』には、秋山の地勢が簡潔に描かれています。
途中(中略)少し飛ばしますが、そのさわりを記してみましょう。
信濃と越後の国境に秋山といふ処あり、大秋山村といふを根元として十五ケ村をなべて秋山とよぶなり。秋山の中央に中津川といふありて、川の東西に十五ケ村あり。(中略)この地東には苗場山天に聳えて連岳これにつづき、西に赤倉の高嶺雲を凌ぎて衆山これに双ぶ。清水川原は越後の入り口、湯本は信濃に越ゆるの険路あるのみ。一夫これを守れば万卒も越え難き山間幽僻の地なり。里俗の伝へにはこの地は大むかし平家の人の隠れたる所といふ。(中略)この秋山には古への風俗おのづから残れり聞きしゆゑ(中略)、桃源を尋ねぬる心地して秋山にたづね入りぬ
『北越雪譜』(平凡社・東洋文庫)
信越・秋山郷への旅立ち~文政11年(1828)9月8日 (新暦10月18日)
*以下、同様の地図は「明治27年(1894)~大正4年(1915)の国土地理院図」を使用。
道は旧三国街道が主道路になっている。
この旅は、牧之が「武陽の舊友十返舎一九うし」というところの、その一九にかねてからせがまれていたものでした。
*十返舎一九と鈴木牧之
十返舎一九(じっぺんしゃいっく) 明和2年(1765)駿河府中(静岡市)で町奉行所の同心の子として生まれる。大坂で7年余を過ごし、そのとき浄瑠璃作者となる。江戸に戻り、寛政6年(1794)に蔦屋重三郎の食客になる。
享和2年(1802)に「浮世道中(東海道中)膝栗毛」が出版されたが、これが予想外の好評を得る。
以降、ベストセラー作家となる。天保2年(1831)没。享年67歳。辞世の句「此の世をば どりやお暇と線香の 煙と共に はい(灰)左様なら」
十返舎一九は『東海道中膝栗毛』がベストセラーとなり、すでに戯作者の地位を確立していました。
そんな一九は文政元年(1818)4月のこと。江戸より三国街道を通ってはじめて塩沢の鈴木牧之を訪ねたといいます。この折り、意気投合し、越後のいろんな話題がかわされたのでした。この時のネタで一九は『越後新潟道中膝栗毛』(内題『滑稽旅烏』上下2冊・文政3年刊)をものにしました。
一九も戯作のネタをあれこれさがしていたのでしょう。話に乗じ秋山の滑稽談ものぼりました。
文政11年(1828)になり、一九はその秋山郷の探訪を牧之に依頼し、「秋山記行」の出版をも約束する段取りをとった。だが、この企画は残念なことに、天保2年(1831)8月7日に一九が急逝(享年67歳)したことにより実現するまでに至りませんでした。
牧之は一九から頼まれた秋山郷の探訪が気にかかっていました。
しかし商い事や雑事に追われる日々で、気には留めているものの,なかなか赴けませんでしたが、ようやく好機到来となりました。
「其内に、早道場なる桶屋團蔵、其地へ何となき商に行ぬると傳へ聞、案内頼むに、いなみもせず、暦見ぬ日を吉日と、首途の用意は米・味噌・鹽・肴・或竹筒に外夏(となつ)と云う酒をこめ、其地時節の嶽々の初雪に、深山颪を厭はんと、心にあらぬ絹の衣五つに纏り、小蒲團やうのもの迄桶屋がさし圖に調へて、故郷を鶏鳴にうち立。」
実に、渡りに船の旅でした。
牧之も58歳。この好機を逃したら後がない。何んとかこのチャンスを生かし一九の期待に応え、出版にもこぎ着けたいものだと張り切った。
牧之は心にひしひしとした意気込みを感じたことでしょう。
立って、まず最初に出てくる地理的な手がかりとなる一文が以下のもの。
「上野村の西なる十二峠は一としほ行路難々たりと云ども、道の程近しと、ひた登りに雲霧を掴んで攀上り、やゝ絶頂に至れば露霜のみ。四方雲霧晴渡りければ、上田・妻有の二庄、頚城郡迄、巍々たる山々の眺望に暫杖を駐め、庄の境の十二山の神を拝禮し、是より片降りに倉下村となん山家に湯水を乞ふて息つきあいぬ。」
これを明治27年(1894)~大正4年(1915)の国土地理院図に求めてみました。
すると、およそは旧三国街道を南に向かって、塩沢から7キロ余りのところに西に向かう細い道が分岐しているのが確認できます。
いまの国道353ということになるでしょう。そこから十二峠のある山側に入ったのではなかろうかと推定できます。
*国道353号 群馬県桐生市から新潟県柏崎市に至る一般国道。
*越後湯沢駅前~十二峠~清津峡~中里~津南町役場前~森宮野原迄の定期路線が南越後観光バス(株)により運行されています。秋山郷に入るときは、いつもこの路線を利用しています。
同道する桶屋団蔵が住んでいたのは、本文にもあるよう、塩沢の「早道場」の通りであったらしい。
この商人の素性は詳らかではありませんが、桶屋というから、さまざま大小の木桶などを商い、秋山で作られる木鉢、こね鉢、お盆、お膳といった木工細工の買い付け等も稼業としていたようにおもわれます。
二人は早朝に塩沢を旅立ちました。
案内人の桶屋団蔵は現在の十日町市・南魚沼市の境にある十二峠を越え倉下・葎沢(もくろさわ)・小出・田代・所平・野士といった集落をぬけ、獣道同然のような山間の道を経て、その日は見玉村に着き、見玉不動の別当である正法院に宿泊するという道程を踏んでいます。
この間のコースをもう少し細かく追ってみましょう。
塩沢・十二峠・葎沢・小出・田代・所平・太田新田・見玉(泊)の一日です。
塩沢からは十二峠を越え,倉沢-葎沢-小出と現在の国道353号を踏襲するルートで西へ進み,
小出からは国道と分かれて田代へと向かい所平・野士(太田新田)と辿り,「秋山紀行」の入口となる見玉に出ています。
小出から秋山への道程はなかなか複雑そうです。
しかし、道は使われてこそ生き永らえるものだから、地図をトレースすると、なんとなく古い道が透けてきます。それをたどることにしました。往時はどの道も杣道以上のものではなかったはずです。
塩沢の鈴木牧之邸の前から旧三国街道を歩きだし、二人が歩いたと思える目来田(もくらいでん)・砂押・下一日市(しもひといち)と国道17号を南にたどり、関(せき)から国道353号に入った。
国道はほぼ一本道で、すぐに上越線の線路をくぐります。十二峠が控えているせいか、道はたえず緩やかな上りで続きます。
国道353に入り20分も歩かないところ、右手に大寺の関興寺(かんこうじ)があります。
関興寺 臨済宗円覚寺派の寺院で、「最上山関興寺」という。
約600年の歴史をもつ参禅道場として知られ、伝説の「味噌なめたか」で有名な大寺院。
バスで通過するたび「味噌なめたか」の標語はいったい何なのだろうと疑問に思っていた。
牧之も知る魚沼の名刹であったろう。
総門 黒門と呼ばれ約300年ほど前に建立。安房勝山藩・酒井家(徳川家譜代大名)白川陣屋代官・下田家の屋敷門。平成21年8月の移築。
左側に門番の詰所。武家屋敷の風格がとてもよく感じられる。
門扉は欅の一枚板で造られていることなどは、下田家の格式の高さを表している。
地元では「雲洞庵の土踏んだか、関興寺の味噌舐めたか」と、対でいわれるのだそうです。
「御館の乱」(おたてのらん)の折り、住職・雨天是鑑は、上杉氏寄進の大般若経600巻を味噌桶の中に埋めるよう修行僧に指示し、戦火から経文を守った。そこから、この味噌をいただくとご利益が授かるとされ「「味噌舐めたか」の言葉が生まれたのだという。
*御館の乱 天正6年(1578)の上杉謙信急死後、上杉家の家督をめぐって、謙信の養子・上杉景勝(長尾政景の実子)と上杉景虎(北条氏康の実子)との間で起こった越後のお家騒動。景勝が勝利し、謙信の後継者として上杉家の当主となり、後に米沢藩の初代藩主となった。
山峡の鄙びた湯治場の里・上野(うわの)の集落
このあたりは「上野」という集落で古くからの湯治場の里として知られていた。
上野鉱泉(うわのこうせん)
明治以来、湯治場として栄えてきたのどかな温泉地(鉱泉)。
道がくねりはじめて2つ目の右手あたりが十二峠の入り口らしいが、雑草に覆われ道らしきものは消えている。
峠入口は獣道ですらない。
秋深まれば道らしきものが見えるのであろうか。それもままならないようんさ景色だ。
わが故郷は「妻有の里」・水清くして天然の美に溢れたところ!
ふたりが峠上に着いたときはまだ早朝だった。近年までそれなりの往来はあったようだが、そのあたりを記した資料や記録がなかなか見いだせない。見つかったら補足することにして、代わりに牧之の記述でしのんでみたい。
「上野村の西なる十二峠は一としほ行路難々たりと云ども、道の程近しと、ひた登りに雲霧を掴んで攀上り、やゝ絶頂に至れば露霜のみ。四方雲霧晴渡りければ、上田・妻有の二庄、頚城郡迄、巍々たる山々の眺望に暫杖を駐め、庄の境の十二山の神を拝禮し、是より片降りに倉下村となん山家に湯水を乞ふて息つきあいぬ。」
*ここでいうところの「上田・妻有の二庄」。中世の上田庄はほぼ現在の南魚沼郡、妻有庄は中魚沼郡にあたるといわれます。
妻有 新潟県十日町市・津南町からなる広域の名称。なぜ妻有と呼ばれたのか、諸説あり、 「どん詰まり」から転じた呼び名だという説があり、信濃川の最上流の四方を山に囲まれた「奥深い行き止まりの地 」という意味であるとされています。わたしも耳馴染みがあり、さもありなんと思えます。
この「秋山紀行」は、そんな我が故郷でもある「妻有」への鎮魂と讃歌を心敷にして記しています。
十二峠 新潟県南魚沼郡塩沢町と中魚沼郡中里村の境の峠(標高723m)だったが、いまは合併で十日町市・南魚沼市の市境。峠には名の由来とされる十二社を祀るお堂があり、かつては茶店もあったという。
十二社 越後のこのあたり、いたるところで十二山の神が祀られています。これから向かう秋山郷にもあります。集落の鎮守として、また屋敷神として祀られているものも多くみられます。上信越は東北地方の日本海側とならんで十二山ノ神の信仰のたいへんさかんなところといわれます。
山ノ神を祀り祈願するのは、狩人や木樵など山で働く人ばかりではない。山水の恵みをもらい田畑をたがやす人もまた、山ノ神を大切にしました。「山の神」と呼ぶ地域と「十二様」と呼ぶ地域があるそうで、この山神信仰は霊山や高御神などの山岳信仰とは区別されています。
木こり、炭焼き、狩猟、採取(山菜、木の実)、採掘、あるいは土木関係の工事など「山仕事」全般の安全を守り、豊穣を約束してくれる神として信仰されてきたそうです。
牧之の記述にも、「庄の境の十二山の神を拝禮」とあり、峠神・境神ともとらえられていたかもしれません。
いずれにしろ、「十二」が正確には何を示しているのか、詳らかでないようです。
*魚沼スカイライン 十日町市の十二峠と南魚沼市の八箇峠を結ぶ約20キロの観光道路で、六日町盆地や十日町盆地を眺める絶好のビュースポット。
峠を越えると妻有側の最初の村は倉下村。いまは十日町市倉下。
倉下村
倉下村からもう一山越えて下ると葎沢に出る。
二人はここで、お湯をもらい一服した。
記述は、
「夫より亦上り降りの峠數々にして、葎沢(むくろざわ)と云ふ村に至れば、清津川とて、」
と続き、清津川の畔に出ています。
葎沢 「葎」とは広い範囲にわたって生い茂る雑草のことで、また、その茂みをいい、カナムグラ・ヤエムグラなどともいうらし。旧:中里村だったがいまは十日町市葎沢。
懐かし写真があるんですが、まつわる記憶がままならない。
小学生のころ、夏休みに清津峡にキャンプにきた。そのとき、ここをガタゴト揺れるボンネットバスで通ったはずなのだが、懐かしさはあるのに記憶がてんで浮かんでこない。ここが葎沢(むくろざわ)というところだということも今回はじめて知った。ドライヴインなどあったのかな?
そもそも、誰がカメラ持ってたのか?誰が写したのか?そこが摩訶不思議!
山間を流れる清津川。川を挟んで葎沢と小出、二つの村がある。
「萬年橋とて、大なる杉の丸たを二本、川向への岩上に掛け、柴掻付」と牧之が記した萬年橋
丸太二本の橋。隙間から激流がみえる。牧之はびくびくしながら腹ばいになって渡った。
川向うは小出の集落。
*清津川・清津峡
清津川を遡ると、黒部峡谷・大杉峠とともに日本三大渓谷として知られる清津峡がある。
ダイナミックな柱状節理の岸壁と清津川の急流が目前に広がる絶景!
*日本三大峡谷 黒部峡谷(富山県)/清津峡(新潟県)/大杉谷(三重県)
「川の向へには小出と云ふ村有りて、數十間の一ツの岩西岸に聳い、殆奇景書圖の如く、又、橋づめの岩の頂に、いかにも世に古りし蟠龍に似たる老樹鬱茂して水上へ覆かゝり。此木のもとに一宇の宮立あり。」
小出村
牧之たちは橋を渡り、小出村にたどり着いた。
小出村の中段で、桶屋の団蔵がなじみにしている市右衛門の家で昼食をとらせてもらい、ゆっくり休んだのち重い腰をあげ田代村へと向かった。
このあたり独特な古い造りの家屋。
*「葎沢の棚田」 清津川の周囲に貴重な棚田が残っています。
「是より田代村迄行程二里、何れ山に登り澗(たに)に降り。されども牛馬の行かふ途なれば、四方山の詠(ながめ)に勞れも忘れて、田代の谷川の流れに至りぬ。」
なるほど、そうかと納得する。
古い地図を見ると小出から田代へと尾根の道が通じている。江戸期からの山道であろう。
田代と葎沢や小出との往来があったように読め、この道しかないようにもみえる。
葎沢に着いたらすでに予約していたタクシーが待機していてくれた。
ここから先、見玉迄はクルマに頼ろうと決め、事前に手配しておいた。
このさきを走るのは初めてだと運転手はいうが、そう心配顔はしていない。
小出から「清田山(せいだやま)公園」へのルートを経て田代へ抜けることにして、さっそく走りだした。
小出から田代へいくつもの屈曲を繰り返す道路が通じている。
行く道の野辺に「渓水潤美田 中里村長山本茂穂書」と記す竣工記念碑。中里村は平成17年(2005)十日町市合併。
くねくねと蛇行きわまりない道であるが、田代の釜川に架かる田代橋までおよそ11キロと踏んだ。
清田山への道。
視界の風景はすべて紅葉。まるで油絵の世界!
運転手は「ちょっとした山岳ドライブですね」という。
田代へと通ずる道は迷うことはない。と、案内板を睨みつけて出発したものの、気がついたら「清田山公園」への道を走っていた。という一幕がありました。
そのルートで紅葉が迎えてくれました。
山の奥ながら、平地とあれば田んぼが開けている。斜面であれば棚田になる(感動だ!)
*清田山公園 標高約600mの清田山の山麓に広がる集落の棚田や、信濃川とその支流により形成された河岸段丘、新潟と長野県境の山並みのほか、日本海を臨む米山や黒姫山、さらに天気が良ければ西側に日本百名山の妙高山・火打山を望む景観を楽むことができます。
四季折々の変化もすばらしく、春はブナ林の新緑や八重桜、初夏は水田の輝き、秋は紅葉など、豊かな自然に育まれた景色を眺めながらのキャンプが過ごせます。(清田山キャンプ場・案内より)
山頂でひととき山の空気を吸い、Uターンして田代方面に向かった。
ものの数分で田代村の田代橋のたもとに着いた。
田代村 かつて名所「七つ釜」への分岐点の村とされた。
「田代の柴橋渡りて、」とある「田代橋」。川は釜川。牧之は上流の「七つ釜」に惹かれるが…
「此水上十丁餘、往来都(すべ)二十丁の費用(つひえ)なれども、此邊に名高き田代の七ッ釜見んと、頻りに思い侘びぬれども,見玉迄はまだ遙(はるか)なれば、(略)秋山記行に敢(あえて)無用の長もの語と、しばらく農家に休らへ、」
牧之はさきを急ぐことを優先し、また「秋山記行に敢(あえて)無用の長もの語と」、いさぎよく断念した。
田代橋を渡るとクルマは山坂道になる。
「トコロビラと云ふ村よりやゝ往事半道ばかりにして、山の裾野の平原渺々たる處に[出づ]。蜘[蛛]手輪違ひのやうに迷道繁く、」
田代から先のことを牧之は以上のように記した。
アッという間にその所平に到着。しかし、牧之はここだけ、どうして「カタカナ」にしたのだろう。
漢字では所平。ですが、正しくはそもそも「トコロヒロ」なんですね。
この二段階の間違い。牧之に何がそうさせたのでしょう。
このさき地形は名の如く実にヒロイトコロで、平らかな大地となっている。
津南町中深見の所平地区に鎮座する。所平の氏神様。
七社神社 「神社明細帳」(明治16年)によれば「中魚沼郡中深見村枝所平分字所平 無格社・七社」とある。所平地区の産土神。
祭神は高皇産霊尊,神皇産霊尊,大日孁尊,大山祇命,健御名方冨命,譽田別尊,月読尊の七柱。創立年代は不明のようだ。明和3年〈1766〉創立の字峯平の神明社(祭神・大日孁貴尊)が明治40年(1907)に合併している。
牧之たちはここから標高650メートルの高原台地に向かう。
ふいに牧之は、わが里のものが、見玉の不動尊詣にきて迷ったのがこのさきだったことを思い出す。
しかし、道に通じている桶屋が付いているからこの旅は安心と牧之は不安を打ち消す。
このあたりの目標は大谷内ダムだ。
牧之が書く。往時の道は、
「蜘[蛛]手輪違ひのやうに迷道繁く、」
まるで迷路のようだったと。
そう書くものの風景は上々。
「芝原の細道なれども爪づく石だになければ、眺望殆(ほとんど)勞れを忘却し、近くは黒姫・米山、遠きは八石(はちこく)・伊彌彦の嶽々を、足元は杖に任せて臨み、又見卸せば、千隈の流の左右葉は上妻有の庄にて、村々の名も知らねども見え渡る。」
見晴らせば起伏のある平草原のような所だ。
一帯は(664米)は、昔から集落の無かったところで、苗場山北斜面に拡がる広大な原生林であったそう。戦後、入植者により開拓されたが成功せず断念。その後津南町、中里村で苗場山北斜面山麓一帯の農地開発が行なわれ、到るところ、農免道路が走り、潅概用のダム、溜池が造られました。
いまは大谷内(おおやち)ダムやニュー・グリーンピア津南(旧津南牧場)が広がっています。
大谷内ダム 元々あったため池を改修し、貯水量を約3倍に増やした。堤長が1780mと、日本一長い。周囲がぐるっと堤体になっている。南方にある釜川から大場頭首工により取水し、導水路でダムまで導水している。着手/竣工・1975/1990 「ダム便覧」(財団法人日本ダム協会)
標高650メートルに位置する総合リゾートホテル。広さ100万坪。ゴーカート、ローラーリュージュなど、スノーシーズンはホテルからすぐのゲレンデでスキー、スノーボードが楽しめる。
開拓の勝利を記念したものらしいですね。
碑文というものは、とかく記しすぎですね。
山中だから、こういうところですから、もっとシンプルでいいんじゃないですかね。
ニュー・グリーンピア津南
年金福祉事業団によって「グリーンピア」計画事業として1980年から1988年にかけて全国に13ヶ所設置された施設の一つ。昭和60年(1985)11月に完成、同年12月1日オープン。
鉄筋8階建てのホテル。年金福祉事業団により大規模年金保養基地として6番目の基地とされた。しかし、経済の変化にのまれ第1次小泉内閣の「特殊法人等整理合理化計画」に基づいて廃止された。だが閉鎖となるところ、経営主体が代わり、事業はそのまま続けられるようになった。津南町へ譲渡され、津南町が運営委託する形で「ニュー・グリーンピア津南」としてリニューアルされ現在に至っている。
「蜘[蛛]手輪違ひのやうに迷道繁く、」。と書いた芝原の細道の縦断。
路傍に碑。「山に道あり、故郷のつながり、自然の恵みに感謝、我ら共生を誓う」と刻まれています。
中津川渓谷の「柱状節理」が望める。
団蔵はおおよそ、所平から「谷上」、大谷内ダムやニュー・グリーンピア津南の広がるあたりを横切る形で歩をすすめ、「やゝ夕日近くノジとなん云村[に至る]。」となった。
野士村 ノジは「野士」で、津南町大字太田新田。
「凡三十軒も[の]草の屋、在邊に似ぬ町井(なみ)に造りならべ、」
と記している小集落に出る。この集落が「太田新田」(標高550米)。
お天気日和に村人は総勢で農事に精をだしていた。そんなせわしないところにと、気が咎めるものの、構えのいい百姓家で湯を乞うた。
渋茶を出されたが、喉が渇いていたので甘露、甘露!牧之は二、三盃所望した。
なにごとかとよくみれば、疱瘡を防ぐためのシメナワが家毎の門に張られている。
その秋のせわしさを見て俄かに牧之の脳裏に一首浮かんだ。
きらはるゝはうさう神も嫌ふらん粟稗がちにたべるのじ村
「秋山記行」の一日目、牧之と桶屋は見玉不動堂の正受院に宿泊した!
日が短い、黄昏てきた。おたおたしてはいられない。
そこで、牧之たちは急いだ。
「是より見玉へは纔(わづか)に爪下がりに、」
とある。
わたしたちも急ぐことにした。
「黄昏の頃修験正法院に宿を乞う」
と書いている。
驚くべき脚の速さではある。記には、見玉村正法院.不動堂境内図を載せている。現在の正宝院不動堂と余り変わりはない。
こうして牧之たちは念願の秋山郷入口の見玉に着いた。
「不動尊の霊験抔(など)を終夜住僧に聞かまほしく思ひけるに、」
と、予定を立てていたものの、住職は大黒のお札配りに上妻有の村々に出かけ二、三日は帰らないとう。
そこで、僧の妻に見玉の故事来歴をよく知る古老たちを呼んでくれるよう手配を頼んだ。
見玉 新潟県中魚沼郡津南町秋成見玉。
秋山郷の入り口にあたり、長い歴史のある「見玉不動尊」と共に歩んできた。平家の落人伝説」の地としても知られている。
わたしはここでクルマを解放した。ここからは総て歩きである。
大草鞋に旅の安全を祈念した。
石段上の不動堂から山門を見下ろす。参道は老杉巨木におおわれている。
石段の途中から不動堂を仰ぐ。
。
見玉不動尊 眼病平癒にご利益があるとされ、多くの参拝者が訪れる見玉のシンボル。
集落では「ふどさま」と呼ばれ、全国各地からも目の健康を願う人たちが参詣に訪れます
平家の家来が持ちこんだとされる不動明王が安置されてより「平家の落人伝説」の地として知られるようになった。現在の不動堂は大正8年(1919)の再建。
おお凄水!見玉不動尊の境内を流れる七段の滝の清流パワー!
「白瀧漲り、砕散り、古木に旭の光りを覆ふ。」
と、牧之は記した。
長い石段に沿う岩石の間を流れ落ちる清水は7段の滝を成して流れる。
そばに寄るだけで天然のミストを浴びる。
滝の清流は、真夏でも手を入れ続ける事ができないくらい冷たい!
真夏でも暑さを感じない聖地。
滝水そのもの、まるごと「延命水」というのも凄い!大地のパワーが戴けそう。
滝の小石を拾って、それで目をなでると眼病が快癒するとの言い伝えがあります。
まさに、生き返る滝ですね!
眼病にご利益がある不動尊。金玉山正宝院、天台宗のお寺!
正宝院 見玉山(みだまさん)正宝院。天台宗のお寺。本尊は不動明王。不動堂の別当寺として興った。もともとは、旧家の中沢清左衛門家の守本尊であったと伝えられている。
不動堂では、毎年11月3日、火渡り護摩(火生三昧)が焚かれます。
焚きあげた炎と燠の中を素足で渡り、身体健全、厄除除災、商売繁昌等、諸願成就などを祈念する修行事です。
牧之は、
「時しも暮秋半に届かねど、寒冷故郷には十倍して、」
と書き、
「長(たけ)六七尺の焚木の大なるを縦横に積重ねて、惜しげなう焚立る」
と、薪をどんどん焚くさまをみて、これが特別なのでなく、普通だということに牧之は驚く。
牧之は薄い畳の座布団を特別に三枚敷いてもらった。
夕食は一汁一菜だが、空腹で美味しくいただけた。
食後、しばらくすると、妻が手配してくれた村長(むらおさ)や古老らが集まってきた。
兎角する内齢八旬ニ近き孫兵衛と云ふ翁と 初老らしきおのこ両三人来たり 是や宵ニ主の妻ニ頼み置きたる此村の長訪来たり
一義の挨拶済や否 四・五尺位の炉端に大あくらして 俗談平語に時を移し 尊像の霊験 或ハ参詣の輩杯の奇端を尋るに 霊像ハ御長一尺余にて 黒尊仏 行基菩薩の御作ニて 当院の本家 中沢清左衛門と申方の守り本尊にて 往昔ハ今一軒の百姓と二軒切りなれとも 星霜移り替り 今ハ三四十軒と成る
一通り挨拶がすむと、彼らは広い炉端にてんでが胡坐をかいて、もろもろのことを野放図に語ってくれた。
見玉不動のご利益、奇跡、霊験パワーの数々。牧之はことごとくを耳をそばだてて聞いた。
こうして終夜の聞き取りはいいように終わった。満足するものだった。
終夜の茶話の替りに 画賛 短尺四・五枚ツゝ三たりに土産ニ遣して
牧之は茶話のお返しとして色紙や短尺などを土産にさしあげた。
夜も更けて、底冷えがする。
帰るや否や、
翌(あす)ハ旦(あさ)ニ起き不動尊へ詣んと寝んとするに 殻椽の座敷ニ薄畳二枚敷き並へ 寝莞筵一枚ニ薄き蒲団を着 木玉枕ニ頭巾真深ニ冠り 荷物の中より綿入羽織折道中ふとん・合羽迄 身上切り重ね掛て 此夜ハ半ハ寝もやらす
と、寒さをしのぎながら、牧之たちは一日目の旅の夜を迎えました。
門前のおみゃげ屋さん
秋山郷では橡(とち)も粟(あわ)も飢饉などのときの非常食だった。
続く 次回は見玉から信濃国小赤沢迄をご案内します。